二・二六

山下省三郎(平成4年1月10日)


 新聞で昭和13年は二・二六事件があり、よい年ではなかったというある人の回顧録を読んだ。
 俺もあの日はいたい目に遭った。
 朝起きて、自宅のポストをのぞいたが、新聞がきていない。はてなと思ったが五反田の駅に来て、驚いた。電車は運転しているらしいがホームはがらーんとしている。
駅員に尋ねたら「本日未明陸軍の一部反乱兵が総理大臣官邸へ乱入、警視庁も占領した。」と言う。
 私の勤めている海軍省はどうなっているのか、心配だ。昨日の帰りに軍機上極秘の図面は金庫に納めてきたが、描きかけの一・二号艦の汽缶室・機械室の配置図はまとめて机の上に置いてきた。
 軍艦の名称は就役直前まで一号艦、二号艦、三号艦等と呼んでいた。一号艦は戦艦大和、二号艦は武蔵で、私はその設計に関係していたが、極秘中の極秘の艦だ。
さあ、気が気ではない。バッチを駅員に見せて、山手線で新橋に着くと、山手線の外側には人が見えるが官庁街には人影が一つもない。
実に不気味だ。しかし、行ってみることにした。シーンとした日比谷公園の脇をひた走りに走った。
 海軍省裏通用門に着いた。陸戦隊の兵士が門に土のうを築いて、機銃を備えている。バッチを見せて、中に入った。室内には数人しか、四部の人はいない。四部とは艦政本部の造船関係の部。当時海軍省構内には、軍略を司る軍令部、艦船兵器を司る艦政本部、軍政を司る軍務局等があった。
 早速、机の上の描きかけの図面をしまってホッとした。表に出ないようにと陸戦隊の人に言われたが、表門まで行って、あたりの様子を見た。斜め前の警視庁は占拠されているらしい。着剣して銃を持った兵がいる。警視庁横の突き当りには議事堂が見える。道の入り口に土のうを築いて機銃をこちらに向けている兵の姿が見える。海軍を警戒しているのだろう。
室に戻ったがする事がない。その内に陸戦隊の人がきて、ガスマスクを渡してくれたが、私たちは文官だから、マスクの使い方など知らない。教わって被ったが、息苦しいのですぐにとってしまった。こんな所に長居は無用と裏門から早速帰ることにした。
 新橋駅に着いて驚いた。朝は省線が動いていたのだが今は全線ストップだ。さあ大変。五反田まで歩かねばならない。まごまごしていたら夜になる。
 一応、田村町十字路まで戻り、浜松町、田町と歩き続けた。増上寺、芝公園あたりで考えた。五反田に直行すべきか、麻布方面、つまり張本人の三連隊から離れて南側を通って帰るべきか。思案したが結局、南側を歩いて品川回りで帰ることに決めて、暮れなんとする無人の街を走り、五反田に着いた。
 朝の新聞の一コマに心ひかれ永々と追憶にふけった。ご免ください。


(後談)父、山下省三郎が二・二六事件に遭遇したのは、父が34歳の時である。若く、まだ血気盛んな時だったと思う。山下明


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