太田道灌 “智慧の泉を求めて”

第二十四話 長井城の戦い

平井城の関東管領上杉顕定は太田道灌の鉢形城攻略の報告に対して。不機嫌だった。「景春めを討ちそこなったということか。」
道灌は答える。
「戦上手の景春のこと故、戦場を他の場所に求めて居るのかもしれません。ですが、敵の居城、鉢形城を奪取できたことは大きな戦果です。城に入ると、その広大さ、秩父を後背地、その入り口に位置するところ、さらに荒川沿いの急峻な崖を天然の要害にするなど、さすがは天才の城づくりと感嘆するばかりです。」
顕定はますます不機嫌になる。
「景春をほめるな。」
道灌は意に介さない。
「あれほどの名城であれば、利用しない手はありません。そこで、顕定様にご提案申し上げるのですが、顕定様におかれては、この平井城や五十子陣城から出られ、鉢形城へ移られ、これからの秩父での、我らの戦いの陣頭指揮を執っていただきたいのです。」
「景春の捨てた城に入れというのか。」
「はい、我らにとって、顕定様が鉢形で、どんと構えられ、我らを支援していただければ、これほどに心強いことはありません。いづれにしても、これからは秩父が主戦場になることは間違いありません。秩父は山深いところです。敵兵が隠れ潜む場所はいくらでもあります。それだけ、難しい戦いになるのです。」

関東管領上杉顕定が重い腰をあげ、平井城から鉢形城に移ったのは、それからしばらくしてからのことである。道灌は顕定を鉢形城に入れることで、上州上杉家の支配地の城を、相模の上杉家の家宰である道灌が奪い取ったという汚名だけは免れることができた。ただ、秩父での戦いで、鉢形城は道灌軍の前線基地として、絶対に必要で、そのように活用できることにもなったのである。

だが、秩父にいると思われた長尾景春は思わぬところにいた。鉢形城の西の田園が広がるあたりに西城(にしじょう)というところがある。そこを支配するのは斉藤利家と言う武将である。斉藤家は前九年の役で武功を挙げた斉藤実遠が源頼朝から長井庄を与えられ、西城を築き、以来、長井斉藤家として、この地を支配し、城は福川と沼で囲まれた水城である。古河公方方に属していた利家だが、義理厚く、景春とも親交を深めていた。景春が上杉顕定に反旗し、古河公方方に属する橋渡しをしたのも、利家だ。その利家を頼って、景春がわずかな兵を率いて、身を寄せたのである。
景春が利家に打ち明ける。
「太田道灌の大軍の前には、どうしても、古河公方様の御支援が必要でござる。そのためには利家殿にお頼みする以外に道はありません。どうか、利家殿から古河公方様へ、ご支援をお願いしてくださらぬか。」
利家は言う。
「景春殿も、今、古河公方様と管領殿との間で、和議の話が進んでいることをご存知であろう。以来、公方様は腑抜けにも、軍を1兵たりとも動かさぬ。和議に支障が出ると恐れているのだ。だが、景春殿がわが城に参られたのは良い機会じゃ。もう一度、公方様にお話ししてみよう。それまで、ゆるりとこの城で過ごされよ。」
「だが、わしがこの城にいることは、早晩、太田側の知るところになろう。そうなれば、道灌はこの城を攻めてくることになり、利家殿に迷惑をかけることになる。」
「いいや、わしも古河公方側の端くれじゃ。道灌も古河公方との戦いは望むまい。だが、知恵者の道灌じゃ。古河公方の真意をつかめば、急戦を仕掛けてくるかもしれん。だが、その時はその時じゃ。わしも坂東武者者じゃ。この城にかけて、景春殿を守って見せよう。」
「利家殿、ありがたきお言葉でござる。我が主力は今、秩父におる。秩父の熊倉、塩沢で強靭な城を築いておる。利家殿が戦ってくれれば、古河公方様も立ち上がるに違いない。そうなれば、私も秩父の我が軍を率いて、道灌の軍を背後から攻め落として見せましょう。」

しかし、利家の懸命な働きかけも、古河公方を動かすことはできなかった。古河公方の心はすでに和議に傾むいていた。その使者の慌ただしい往復は道灌の忍び頭、弥平の網にかかる。
「お館様」
弥平が道灌に言う。
「どうも、西城の斉藤の動きがおかしゅうございます。もしかしたら、景春様と連携した動きかもしれません。景春様が西城の長井城におられるという噂も流れております。」

道灌はこのことを樋口兼信に話した。「どうするか」と語り掛けた。
「少し、兵を出して、様子を見てみるか。」
「しかし、道灌様、斉藤は古河公方に属する者です。これまでも、古河公方の下で、働いて参りました。斉藤の長井城を攻めることは古河公方の寝た子を起こすことになりかねません。」
「それもあるが、そこは掛けじゃ。西城に景春にいることが分かれば、名目は立つ。仮に古河公方が動くようであれば、軍を引いて、様子を見るしかあるまい。だが、わしは古河公方は動かぬと見る。動くのであれば、これまでにも、いくらでも動く機会はあった。それが動かなかったのだ。特に我らが下総の千葉へ攻め込んだ時には、それを一番、心配したのだ。」

日暮里玄蕃が200の兵を率いて、西城の長井城に向かったのは、道灌が兼信と話をした数日後のことである。物見の目的はそこに景春がいるかどうかを確認することである。道灌は日暮里玄蕃が出立した軍の背後で、道灌軍も動きださせていた。

日暮里玄蕃は長井城の中に長尾の旗があることを見つける。それも大将旗である。玄蕃は直ちにこのことを後方の道灌に伝える。道灌は兵に長井城を攻撃することを命じる。斉藤利家は道灌軍が近づくことを知り、景春に秩父へ逃れるようにと話す。
「それでは利家殿を見殺しにしかねない」と渋る景春の背を押す。
「もう、時間が有りません。景春殿をここで失えば、秩父にいるお味方に顔向けができません。」

景春を秩父へ落とした利家は一族郎党の者に、声を上げる。
「鎌倉よりの斉藤一族の力を見せる時ぞ。」
しかし、城は戦い慣れた道灌軍の猛攻で落ちる。名門、長井斉藤家は最後の時をむかえた。1月20日、寒風が吹き荒れる日であった。

長井城が落ちても、古河公方軍が動くことは無かった。それは日に日に、古河公方の力が無くなっていくことを示していた。享徳の乱の主役は間違いなく、古河公方と関東管領上杉家であった。上杉家を実質的に軍事力で支えていたのは長尾景春であった。その景春の反乱で、管領上杉家の実力は形骸化した。一方の古河公方も、味方の陣営が次々に崩壊して行くのを黙って見ているだけだった。これでは古河公方を支えていた地侍たちは離反する。時代が示すように、上杉謙信や北条氏のような新たな強力な勢力が現れれば、雪崩を打って、そちらになびいていくことになるのである。



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