太田道灌 “力の泉を求めて”


第十三話 長尾景仲の古河への進軍

古河公方軍の伊豆遠征の失敗と大敗北は古河公方を支える人たちに大きな落胆を与えた。古河公方側にいる多くの豪族たちが一族の安寧を心配し始めたのである。そのような人たちに追い打ちをかけるように京の将軍より御内緒が届き始める。

古河公方足利成氏が長躯伊豆への遠征を行い、堀越公方政知を亡き者にしようとしたことは京の将軍、足利義政の怒りに火をつけた。政知は義政の庶兄にあたる。足利義政の怒りはおさまらず、162通もの御内書を古河公方を支える有力武将たち、あるいはその家臣にまで発給したのである。その御内書が効果を発揮する。御内書の内容は「治罰の綸旨が出ている成氏にこのまま味方するのであれば厳しく罰する。だが、幕府方になるのであれば、恩賞も与えよう。」というものだった。

下野の有力武将小山持政の心は乱れる。その時、持政は公方の側近、結城氏と領土争いを起こしていたのである。現下の情勢を見れば、古河公方足利成氏が伊豆遠征に失敗し、公方軍は瓦解し、成氏本人も千葉氏のもとに身を寄せている状態だ。この空白の状況を利用して小山持政は結城氏との領土争いを武力で決着させようとした。御内緒が持政の背中を押したのである。こうして持政は上杉方へと鞍替えを決断する。小山持政の反逆は古河公方方に大きな衝撃を与える。多くの有力武将たちが雪崩を打って、上杉方、つまり幕府方に帰参し始めた。その中には常陸の小田光重も、佐野一族の佐野愛寿丸もいたのである。

上州の上杉軍も動き出した。目的はこの機を利用して、城主のいない古河城を制圧することだ。古河を抑えれば、長い公方との戦いに決着をつけることができる。文明3年(1471年)4月、山内上杉家家宰、長尾景信を総大将に、息子の景春らが上州、武蔵、秩父の軍勢を引き連れて、進軍を開始した。その数5千。景信が、父景仲から家督を継いだのは10年前、その2年後に景仲は亡くなっている。景信は上州上杉軍を統率する地位についていたのである。

太田道灌が東武蔵の兵1千騎を率いて、景信の軍に合流したのは懐かしい足利学校のある当たりだった。「景信殿、遅参いたしました。」道灌と景信は義理の兄弟の間柄にある。「おう、資長よく来てくれた。都留は元気にしているか。」「ハイ、元気でおります。」太田軍が合流したことで、上杉軍は合計6千騎と言う大軍になった。これまで一方的に押され続けてきた局面が変わったのだ。それでも古河公方に従う武者はまだまだ多いのだが、上杉軍には目算がある。敵の中には小山持政など、こちらに味方すると伝えてきた者がいる。進軍すればさらに味方する者も増えるだろう。しかも、敵将古河公方は下総の千葉孝胤に身を寄せていると聞く。敵はまとまっていない。「勝てる。」景信は考え、道灌もそう思っていた。上杉軍は足利を経て、新田へと進む。さらにその先に進めば、大窪、舘林、佐野の庄に至る。道灌は思う。そこにはあの佐野盛綱がいる。盛綱はすでに古河公方への忠誠を誓っている。戦場であいまみえることになる。

戦いはまず、大窪に近い八椚城(ヤツクヌギジョウ)で始まる。そこに佐野一族の赤見と言う者が守っていた。だが上杉方には内通者がいる。佐野の旧臣山越を城の北に向かわせ、佐野の救援軍と装おわせたのである。その奇襲攻撃は見事に成功する。上杉軍は山越軍が城に入ったところで総攻撃をかける。城は内部から崩壊し、あっけなく陥落する。幸先の良い勝利であった。

次の目標は館林城であった。館林城は周りを沼や湿地で囲まれた水城である。そのため攻めるに難しい城である。ただ、それは支援する側にとっても難しい城であった。特に十分な準備を整えていなかった館林の守備兵にとって援護は絶対に必要だった。上杉勢は城を囲み始める。古河方の結城氏や小山氏のうちの反持政勢力が駆けつける。館林城の重みは古河公方方にとって大きなものだ。佐野盛綱も兵をまとめて、支援をこころ見る。だが、大軍で城を包囲した上杉軍を突破することは出来ない。包囲を突破できなければ孤立する館林城の命運は明らかだった。城を守る赤井文三が上杉方に降伏して、この戦いは終わった。

館林城を抑えた上杉軍が古河へ向かおうとしたとき、これを阻止しようと佐野盛綱の兵が活発に動き始めた。少兵ながら、地の利を得て、夜襲などをかけてくる。「うるさいのう。」景信がじれた。「此の際だ。佐野を叩く。」「お待ちください。」声を発したのは道灌だった。「今は一刻も早く、古河を落とすことが肝要です。古河さえ落とせば、佐野盛綱も降してまいりましょう。」それに対して、若い景春が抗弁する。「佐野ごときに、上杉が背を向けるのは恥です。一気に叩くべきです。」

結局、景信の決断で、佐野攻撃が命じられる。だが、上杉軍は誘い込まれるように佐野盛綱の本拠、唐沢山城に誘い込まれることになった。道灌は昔、盛綱が言った言葉を思い出して、いやな予感を感じた。「上杉軍が押し寄せてきても、この城で撃退して見せる。」と言ったあの言葉だ。

翌日の早朝、景信は総攻撃を命じた。「こんな小城、一気に押しつぶしてくれん。」だが、見た目の城の姿とは異なり、この山はそれ以上に大きく急峻だった。朝露の中、兵の足は滑るばかりで、そこを攻撃された。何とか、突破して、敵がいた場所を攻めたてても、そこはすでにもぬけの殻だった。敵は突然に現れ、突然に消える。敵がどこにいるか分からないのだ。佐野一族との戦いは山岳戦に慣れている上州勢にしても、やりにくい相手だった。

道灌は景信に進言する。「私は足利学校時代に、佐野盛綱と言う男に会っています。よほど、あの城に自信があると見えて、「唐沢山城はどんな大軍にも負けない。」と豪語しておりました。ならば、ここはひとまず引き、私たちの本来の目的である古河城攻略に向かうべきかと思います。唐沢山城が堅城と言えども、他を制圧し、倍化の軍勢で攻め寄せれば、盛綱の鼻を明かせるというものです。」景信はこの道灌の言葉にうなづくが、悔しさを隠さない。さらにもっと悔しそうにしていたのは、その子の景春だった。都留との結婚式以来だが、堂々とした若武者になっていた。

撤退を開始する上杉軍に、後方から佐野軍が追撃する。上杉軍の殿を任されていたのは太田道灌だった。馬を使った機動性は道灌軍の持ち味だった。攻め込んできた佐野軍もちりじりに追い返され、態勢を整えるのにやっとであった。佐野軍の先頭を進んできた盛綱も太田道灌の旗指し物を見て、にやりと笑う。「もうよい。作戦を立てなおす。どうせどこかで野営する。そこを襲う。」

上杉軍が、古河城攻撃向かって、動き出した。陣をかまえたのは児玉塚であった。この児玉塚には帰順した小山勢も加えて、さらに大軍になった。だが、唐沢山城攻撃の失敗が尾を引いていた。背後から佐野勢がいつ追撃してくるか分からなかった。しかも、その攻め方は奇襲である。実際に、盛綱は夜襲を仕掛ける。そして、再度、上杉軍を唐沢山城に誘うのである。この繰り返しが、結局、上杉軍の古河城攻撃を断念させることになった。

長尾景春は佐野勢を追って、児玉塚から東の赤塚に陣を移し、佐野盛綱が逃げ込んだ甲城を攻撃する。上杉軍が陣をかまえた赤塚の北方、2キロほどのところにある岩舟山に造られた砦である。景春は3千騎で、この城を攻撃する。しかし、甲城は、その名が山の形を表しているように急峻である。さらに、盛綱も必死で守る。上杉軍の執拗な攻撃も、ついには撃退されたのである。

さすがの長尾景信もこのまま、佐野氏と戦い続けることが、小山氏などを凋落させた上杉方の努力を水泡に帰すことになるかもしれないと危惧し始めた。今ならまだ間に合う。敵の拠点、館林城まで攻略したのだ。その成果は大きい。景信は今回の戦果に満足して、上州に引き上げることにした。ただ、景信には思惑があった。それは上杉方に鞍替えした小山持政の存在だった。彼がここの地をうまくまとめてくれるはずだ。

だが、その期待はあっけなく崩れる。小山持政は一族や家臣から総反発を受け孤立する。それは小山氏の内紛となった。古河公方軍の中核を担う小山氏が衰退へと向かうことになったのである。下野は混乱の末に再び古河公方方の地に戻った。そして凱旋将軍のように古河公方足利成氏が古河城に帰還したのであった。だが、その時には以前のような強大な古河公方の力を失っていたのである。



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