太田道灌の話 “力の泉を求めて”

第十一話 太田道灌


予想された古河公方軍の荒川越えの進撃はなかった。その理由は公方軍の最大の敵が上州の関東管領上杉家であり、古河公方軍と上杉軍の戦いはもっぱら上野(コウズケ)の国の東部で展開されていたからである。圧倒的な軍事力を誇る古河公方軍も、上杉氏の居城である平井城と後方の強固な山城である平井金山城に籠る上杉軍を打ち破ることはできなかった。さらに、上杉軍が古河軍に対抗するために、五十子の陣を造ると、その攻防が戦いの中心になっていったのである。

そのような時、江戸城に資長の父、資清が訪れる。都留が品川湊から移動してきて、間がないときで、屋敷の中は雑然としていた。「ほう。」資清から出た最初の言葉だった。“この短期間に、よくここまで造りおった。”資清は改めて、息子の才能を認めた。“川越城を見本にせよ。”と言いに来たのが逆になったと思った。自分の方こそ息子に学ばなければならぬのかもしれぬと思ったのである。そして、太田家の総兵力はこの江戸城に置くべきだと察知した。「ほう。」資清から次に出た言葉も同じだった。江戸城から見える景色は素晴らしかった。そこには中国の洞庭湖を描いた水墨画のような景色が広がっていたのである。江戸城のある台地から海にせり出すように生えている黒松、葦や真菰の生える日比谷入江、その先には江戸湾がキラキラと光り輝いていたのである。

資清は資長に告げる。「ただ今より、太田家の家督をそちに譲る。これまで以上に精進せよ。」資長も都留も突然のことで、言葉が出ない。しばらくして、資長がいう。「突然のことで、驚きましたが、いかなる理由でしょうか。」「いや、わしは上杉持朝様の補佐に専念する。そちはこれよりは太田家の全兵士を率いて、武蔵制覇に全力を尽くせ。わしは川越城に持朝様を招き、上州の上杉勢の援護に回る。それがそちに家督を譲る理由じゃ。」

この資清の決断により、弟の資忠をはじめ、多くの兵士が江戸城に集結することになった。これまでの資長には、樋口兼信などのわずかな兵と日暮里玄蕃の傭兵部隊、さらに、江戸重弘退去によって残された江戸氏の旧臣たちだけであった。そこに、太田家の本体が参加してきたのである。資長は自分の支配下にある兵を二つに分けた。太田家の本体を弟の資忠に指揮させることにした。まだ未熟だが、太田家の古参の兵たちの補佐を受けることが可能だ。その他の日暮里玄蕃の兵士たち、江戸氏の旧臣たち、さらに江戸城の構築などの中で、新たに家臣団に加わった者たちをまとめて、資長が指揮する態勢にした。

このように臨戦態勢を整えたのだが、太田資長(道灌)のおさめた30年間、江戸城は平和であった。太田道灌は兵を率いて、各地を転戦したが、江戸城が敵に攻められるようなことは一度としてなかったのである。それほど江戸は平和であった。それに伴い、近郊の淺草も発展する。この地は道灌によって、新たに馬具や鎧など、戦用具の生産が盛んになったのである。今でいえば、軍需産業を支配下に持っているようなものである。

「殿さま。珍しいことに日冠坊様がお見えになりましたよ。」都留が嬉しそうに言う。都留も足利学校で日冠坊と面識がある。「珍しい友とは貴公のことだ。よく来た。」「ご無沙汰しておる。だが、貴様の噂はよく聞く。武蔵で大活躍とのことだ。」「そんなことはない。僥倖が重なっておる。」資長は日冠坊と一緒に来た客が、二人の会話など聞こうともせず、その場からの風景にうなっているのに気が付いた。「誰じゃ。あの御仁は」そっと日冠坊に聞く。日冠坊はその人を振り返ると、「和歌の飛鳥井雅世先生です。」と答えて、資長に文武両道の必要を説いた。「文なくば、いかに武がすぐれていようが民は乱れる。」日冠坊が説く言葉だった。

和歌の飛鳥井雅世と紹介された人物は「なんと美しい。なんと優雅なことか。」と城からの風景を絶賛する。資長はこれまで忙しく、美しいとは思っていても、ゆっくりとこの風景を味わう時間を持ってこなかった。そして、言われるままに、この見慣れてはいるが本当にこの風景を見ていなかったことに気が付いた。「本当に美しい。」それは他人が言うような言い方で、飛鳥井雅世がくすりと笑い。日冠坊が大口を開けて笑い。それに都留がびっくりしたような顔を見せた。

その日から、資長は飛鳥井雅世に和歌を学ぶ。雅号も道灌とした。この雅号がこの人を表すようになった。緊張感の薄らいだ時、道灌の見た江戸城からの眺めは美しかった。文人としての大田道灌の心が揺れ動く。本来であれば、戦時の最高指揮所となる場所に静勝軒が造られた。静勝軒は3階建てである。3階は見晴台、2階には道灌の書斎があり、1階は軍議などのための大広間となっていた。これが母屋である。ここが江戸城の中心で、見晴らしも最も良いところである。攻め来る敵の陣容も分かるが、美しい江戸湾の眺めも素晴らしいところであった。

静勝軒と渡り廊下でつながった東西に二つの客室が造られる。一つは富士山の眺望がすばらしい含雪斎、もう一つは江戸湾を浅草港へと行き来する船が絵のように見える泊船亭である。これらの邸宅のひさしには、板に書かれた詩文が掲げられている。その多くは大田道灌を慕って訪れる文人歌人の多くが残したものとされている。最初の一筆を入れたのはもちろん彼の師、飛鳥井雅世であった。

日冠坊の帰り際に、道灌が言う。「日冠坊に頼みなのだが、この城の鬼門、丑寅の方角に寺を置きたい。ぜひ、力になってくれないか。」日冠坊はうなずく。「わしはまだまだ未熟だが、この江戸城に見合うような高徳の師に寺の創建をお願いしてみよう。」江戸城の鬼門、丑寅の地である平河に法恩寺が建立されたのは長禄元年(1417年)である。当時は本住院と称し、日住上人によって開基されたという。

太田道灌は豊富な資金で兵を養い。武蔵の国をにらむ。この地には豊島氏のような大豪族もいたが、湿地が続く土地柄、小豪族が林立していたのである。そして、彼らは古河公方と上杉管領家との戦いでは、旗幟を鮮明にすることはなかった。まず、千葉実胤兄弟を傘下にして、豊島氏を上杉方にさせ、徐々に、公方方との境界、利根川・荒川に迫っていった。道灌には構想があった。江戸城と川越城の間に、もう一つ城を築くことである。江戸と川越では距離がありすぎる。その中間にくさびの形で、城が必要である。それができれば、川向こうの公方軍の城への対抗する城が持てる。さらに言えば、江戸であれ川越であれ、緊急時にはその城からの支援も期待できる。

道灌の構想は直ちに実現に向かう。岩槻城である。道灌は岩槻城が形を見せ始めると、弟の資忠にこの城を守らせることにした。ただ、資忠軍は大田軍の中心である。彼は道灌のそばで働いてもらわなければならない。そこで、資忠に言う。「城が完成したら、江戸にもどってくれ。岩槻城はそちの息子、資家に任せろ。ただ、他の一族の手前もある。形の上だが、資家をわしの養子にするぞ。」



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