芭蕉のじいさん、旅に出る。


第23話 黒羽藩の福原掃討戦

黒羽藩上げての掃討軍が、隣国烏山藩の助力を得て、福原に向かって、進み始めた。浄法寺図書の陣頭指揮のもと、数百という隊列が、自慢の騎馬武者を先頭に、箒川を渡っていく。すでに、烏山の軍勢も南から福原館を包囲するように陣形を整えている。とうの昔に、福原資寛には戦う意思は失せていた。一族の那須資岳に踊らされていたのだ。両軍が館に迫ってくると、資寛は烏山軍に誓詞を差し出して、降伏してきた。二度とご領内をお騒がせすることは無いというものだった。

福原館のことは烏山藩に任せて、大関軍は敵が逃げ籠もった玄成寺に向かった。軍勢が寺を包囲し始めた時に、寺の和尚が慌てた様子で、浄法寺の元に進み出た。そして、報告したことは、首謀者那須資岳は切腹して、果てたこと。彼の周りにいた者たちは、明け方までに、すべて姿を消し、いなくなったとのことであった。

浄法寺図書は那須資岳の首実検をした。黒羽城内での猛々しい姿を思い出していた。彼は彼で夢を見ていたのだろう。図書は和尚にいくばくかの金を渡し、彼の埋葬をお願いして、一同に告げた。「大勝利じゃ。帰参する。」兵たちは口々に「お〜」という歓喜の声を上げた。勝どきを上げるような華々しい戦いは、そこにはなかった。進軍した先で、敵は逃げ散っていた。まるで、芭蕉が言うように那須の御神霊が彼らの行く先々に満ち満ちているようだった。「句会の威力とはこのようにすごいものか。何よりすごいことは一人の例外もなく、全員が自分の意思を明らかにしたことだ。そして、その意思が結集して、今日の大勝利となった。私も浄法寺様にお願いして、俳句と言うものを学ばせてもらおう。」誰彼となく、このような言葉が口から出た。

上州では横田喜八郎の惨殺体が見つかった。目撃した村人によれば、深編笠の浪人が横田喜八郎に立ち合いを望んだという。だが、横田はそれを拒み、相手を罵倒したようだ。それに怒った深編笠の浪人が、刀を抜き、一刀のもとに横田を切り伏せたという。あっと言う間の出来事に、横田は声も出なかったという。その様子を目撃したものの中に、「あれは邪鬼の磯山ではないか。」と言う者がいた。磯山格之進は当時この地で邪鬼の磯山と呼ばれていたのだ。「確か、磯山は腕はたったが、心が荒く、お師匠様から道場を追い出されたと聞いている。もう十年前のことだ。あの邪鬼の磯山がまた上州に舞戻ってきたというのか。恐ろしいことだ。」

横田喜八郎が師範代を務める道場の門弟たちが集まってきて、横田の死体を始末し始めときに、犯人は昔、道場の門弟であった磯山格之進のようだということで、一同の緊張は高まっていた。横田の死で、磯山のどう猛さは倍化して彼らに伝わっていた。その中の一人が話したという。「横田さんは、どうも、大変なことに関わっていたようだ。上州に帰ってきて、何人かの腕のたつ者たちに話を持ち掛けていたという。その話の内容と言うのが、成就の暁には大名の藩士に取り立てられるというものだ。話が話だけに、裏に不気味なにおいがする。だから、多くは二の足を踏んでいたのだが、それでも2,3の者たちが横田さんと一緒に那須に向かうと言っていた。」

磯山格之進が上州から日光街道へと戻ってきたときに、彼の前を歩いている旅人に、磯山の目が留まる。後ろから見ても顔の丸い男だと分かる。「紀文ではないか。」紀文とは紀伊国屋文左衛門のことである。日光まで芭蕉たちと同行の旅をしたのだが、目的は日光東照宮の修復を手掛ける奈良屋の様子を自分の目で見ておきたいというものだった。その目的も果たし、紀文は江戸へと戻りつつあった。気楽な一人旅であるが、欲をかいて工事資料をかき集め、荷が重い。飛脚や馬でも使えば良いと思うのだが、万が一にでも機密が漏れてはと恐れて自分で担いでいる。しばらく、磯山は紀文の後をつけることにした。前を歩く男は右に行ったり、左に向かったりと蛇行を繰り返している。それほど足の速い磯山ではないが、相手は蛇行している紀文である。その背中は次第に大きくなっていく。「だいぶ、荷が重そうではないか。人が居無いところに出たら、わしの一太刀で楽にしてやろう。」

「そうか、用心棒の河合宗五郎が大関藩に向かったので、もう、奴には用心棒がいないのだ。」紀文は鹿沼を抜け、壬生へと向かっている。「そうか、壬生を過ぎれば、しばらく人のいない田畑が続く。絶好の機会だ。残りの5両をいただくのも悪くないな。切ってしまおう。」だが、紀文が壬生の町にさしかかった時に、紀文は誰かを見付けた。若い女だ。「能天気な男だ。自分がこれから切られるとも知らずに。町娘に声を掛けている。むかむかする。ますます切りたくなった。」だが、磯山の想像とは違い。その町娘はしきりに紀文に礼を言っている。ぺこぺこと何度も頭を下げている。「紀文め。町娘を脅しているのか。ますます、許せん。」だが、町娘には恐怖の色はない。笑顔だ。紀文も照れたような笑顔を見せる。「ムッ。逆に、あの町娘が紀文を篭絡しようとでもしているのか。いや、そんなことは無い。あの女の顔には疚しいものはない。心底、紀文に礼をしたいようだ。紀文の重そうな荷物を分けている。二つに分けて、一つを自分が持っていくと言っているようだ。心の優しい女だ。」磯山は知らなかったが、この女性は絹と言って、江戸のやくざから逃げてきた女性だった。芭蕉と曽良がかばい、紀文の金で自由の身になれたのだ。だから、絹にとって紀文は命の恩人なのである。間々田に居ると思っていた両親が壬生に移り住んでいて、絹も壬生で暮らしていた。絹は紀文の荷物を持ち、間々田まで送ると言い張った。最初は固辞していた紀文も気分は悪くない。間々田までの道行となったのである。

紀文は楽しそうである。大きなクヌギのあるところでは、紀文はそこに隠れたりしている。磯山はうなる。「あいつめ、木の陰に娘を連れ込んで悪さをしようとするのか。」しかし、木の陰に隠れていた紀文が顔を出すと娘と二人で手をたたき合い、大声で笑いあっている。そこは紀文が江戸のやくざ者たちに有り金全部をとられた場所だった。「まずいな。女連れでは紀文を切れぬ。しかも、心根の良さそうな女だ。」思川の土手で、二人は止まった。紀文がしきりに見送りはここまででよいと言っているようだ。紀文がしきりに女に頭を下げている。「ありがとうよ。助かったよ。」とでも言っているのだろう。あいつは本当に紀文なのか。才造の主人の奈良屋茂左衛門のあんな姿を見たことがない。紀文は女と分かれていく。いつまでも紀文に手を振っている女の横を通り抜けながら、磯山は思う。「間々田を過ぎて、利根川までの間で、十分に機会はあるはずだ。」だが、磯山の希望はもろくも崩れ去った。間々田宿の前を通りかかった時に、ある宿の主人らしき男が走り寄って、紀文の袖を引いたのである。紀文はまだ日は高いし、ここで泊まる気はなかったようだが、強引に泊まっていってくれと言われているようだ。根負けしたのだろう。紀文は宿の中に消えた。磯山はその立派な旅籠を見上げ、懐の財布を触った。その瞬間、磯山は何かを感じた。そして、急に心を変えた。「止めじゃ。止めじゃ。」と吠えた。懐の財布に触ったことで、お藤に上げた1両を思い出したのである。「もし、あの1両をお藤に上げていなかったら、俺は大関家の役人に切られて、刑場の露となっていたところだ。ここで紀文を切って、残りの5両をもらったら、あの1両が穢れるような気がする。お藤にやった大事な1両が穢れてはならぬのだ。まあ、よかろう、紀文もそれほど悪い男でもなさそうだ。それよりも江戸に早く戻ろう。お藤が来てくれるかもしれん」

黒羽に戻る兵士の姿を、お藤は見ていた。出陣していくときの緊張感はすでになく。冗談を言い合っているのか、兵士たちに笑顔が見える。お藤はあの曽良に似た武士を捜していた。隊列の最後まで見ても、あの武士はいなかった。「私って、ばかだね〜。曽良さんが武士であるはずがないじゃないか。」とお藤は笑った。そのお藤に、鳥追い一座の頭が遠くから怒鳴っている。「おい、お藤、行くぞ。興業は終わったんだ。」

鳥追い一座の頭に、村長(ムラオサ)が話しかける。「きれいなかみさんだね。頭もほの字なんじゃないですか。」「そんなことは無いんだが、あいつは俺の守り神なんだよ。死にかけた命があいつのおかげで助かったんだ。それに、あいつはああ見えて、とても心根の優しい女なんだよ。」鳥追い一座が村を去っていく。その後姿を見ながら、村長(ムラオサ)が仲間の農夫に話しかける。「あの頭はね。以前はとても乱暴な男でね。一座を呼ばないと後で、何をされるか分からないもんだから、実をいうと、今回も仕方なく呼んだのだけど。あの頭の変わりようはどうだろう。とても穏やかな人になったよね。おかみさんのおかげかね。それに、一座の皆さんもみんな楽しそうで、こちらまで楽しくなってしまいましたよ。来年も、必ず来てもらいましょうね。」


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