芭蕉のじいさん、旅に出る。


第21話 那須家の廃絶

権蔵が芭蕉を案内して、武家屋敷の立ち並ぶ一角に来たとき、「ここが城代家老、浄法寺様のお屋敷です。」と指ししめした。権蔵としては立派なお屋敷でしょうと自慢程度に教えたつもりだった。ところが芭蕉は浄法寺邸と聞いて、その門に向かって歩き出した。「ここが桃雪の屋敷か。」「どうしたんですか。こちらは城代家老様のお屋敷だで、近づいちゃ、なんねえ。」権蔵が慌てる。それに構わず、芭蕉は門番に声をかける。「桃雪殿はおいでか。」「桃雪、桃雪などおらん。」門番が答える。芭蕉は苦々し気に言う。「桃雪とは、この屋敷の主のことじゃ。いらっしゃるのか。」「へい。主はおりますが・・・。」「わしは松尾芭蕉と言う。主が居たら、芭蕉が来たと伝えてくれ。」

暫くして、芭蕉は浄法寺邸の客間にいた。前面に美しい庭園が広がっている。権蔵は身を固くして、屋敷に入ることを拒んだ。玄関わきの石に座って待つと言い張った。遠くから足音がして、主の浄法寺高勝が顔を見せた。「お師匠、しばらくでございます。豊勝から黒羽においでになっているということはお聞きしておりました。こちらからお招きしなければならないと思いつつ、まことに申し訳ないことでございます。」「いやいや、豊勝殿から事情は伺っております。このような大変な時の来訪となり、こちらこそ申し訳ないことだと思っております。」浄法寺高勝は江戸で、大関家の危機を芭蕉に救われたことを思い出していた。そして、その心に今回の芭蕉の黒羽来訪が今の大関家の危機を救うものになるかもしれないという期待が、淡くではあるが、膨れあがっていた。

これは浄法寺高勝が芭蕉に語った話である。「そもそもわが大関家は戦国の世、那須7騎の一角として、この地を守り通してまいりました。その時には鎌倉からの慣わしで、那須本家を中心にまとまって外敵にあたってきたのは事実ですが、それでも、我が大関家が那須本家の家臣であったことはありません。それぞれがそれぞれの考えで行動をしてきたのです。秀吉公の小田原征伐にあっては、我が大関家はいち早く関白殿下のもとに参じました。一方、北条家に遠慮して、参陣が遅れた那須家は秀吉公のお怒りにふれ、大名の地位と領地を失いました。ただ、その後、那須家は大関家先代らによる懸命のとりなしにより、徳川様の世になり、旗本の地位を得ることができたのです。その那須家が再び大名として上那須地方を領有することになりましたのは、三代将軍家光公の乳母春日局様が市井で一人の女性を見出されたことに始まります。この女性こそ、のちに大奥に上がり、お楽の方と称され、家光さまのご側室になられます。そして、4代将軍家綱様をお生みになられ、上様のご生母様になられたのです。お楽の方様には御兄弟がお二人おられました。兄の増山正利様は幕府のご要職に就かれます。弟君は当初、家綱様の小姓として召し出されますが、そののち、旗本那須資景様のご養子となられ、名前も那須資弥(なす すけみつ)様と改められます。資景様亡きあとは那須家を継ぎ、天和元年(1681年)2月25日、那須郡内で2万石を頂き、烏山藩を立藩なされました。このようにして那須家は大名家として、再び那須の地に戻ってまいったのです。

順風満帆の那須家でございましたが、世が綱吉様の御代となり、風向きが変わります。そのようなときに烏山藩のお世継ぎ問題が浮上します。資弥様のお子様ですが、長男は幕閣の実力者となっておりました兄の増山正利様の養嗣子となられておりました。増山正弥様です。そのため、他の方を烏山藩の世継ぎにしなければなりません。那須資弥様が、その時に、幕府に候補として、提出された方はお二人でございました。お一人は親族の津軽政直様です。当時12歳で、後の那須資徳様となられるお方です。実兄の増山正利様の娘である不卯姫様と津軽藩主津軽信政様との間にお生まれになったお子さまです。二人目は増山正元様、当時3歳でした。増山正弥様のご次男です。血筋的には増山正元様が藩主のお孫様に当たられますので、正統性があると思われましたが、幕府の裁定は大藩津軽家を後ろ盾とする津軽政直様を年齢が上と言うことでお世継ぎと決定されました。ただ、ここに問題がありました。世子届け出に際し、那須資弥様の次男の福原資寛様の存在が隠くされていたのです。この事実は裁定に不満を持つ福原資寛様の訴えで明るみに出ることになりました。これが幕府の逆鱗に触れます。幕府を欺く不届きな所業だとし、那須烏山藩に廃絶の御下命が下されたのです。

今から考えてみれば、福原資寛様とその取り巻き達も自分たちの訴えで、烏山藩が取りつぶしにあうとは思ってもみなかったことでしょう。彼らはあわよくば烏山藩の実権を握ることを夢見てきたのですが、逆に、自分たちのせいで、藩が取り潰しにあってしまったのです。藩の一部の者からは腹を切って、殿と幕府に詫び、ご下命の撤回を嘆願せよという者までいたということですから、彼らに対する風当たりはかなりきついものがあったのでしょう。そして、それが現実になると、後悔で気が狂わんばかりになったことは想像に難くありません。だから、なんとしても、挽回せんと、大関家の世継ぎ問題を考え出し、取り巻きの一人、那須資岳という男が大関家の所領を、福原資寛様に継がさせようと、突拍子もない申し出をしてきたと思われます。その申し出は大関家の所領を那須家に戻せというあまりにばかばかしいもので、一部の者はあざ笑い、騎馬奉行の大石殿などは激高し、『笑止。笑止。』と相手にもしない態度をとってしまったのです。

その時の様子を高勝は語る。こちらは私と大石殿のほか、2,3の者がおりました。先方は那須資岳殿と護衛と思われる浪人姿の供侍がついておりました。最初は和やかに話していたのですが、先方の話が当家の世継ぎの話だと分かると座はざわつき始めました。私が座を落ち着かせるために「貴殿が言われることの意味が分かりかねるが」と言うと。「城代家老ともあろうものが分からぬでは困る。まだお若いからだろうか。分かるように言い聞かせよう。鎌倉の御代からこの那須地方は那須本家のものであった。那須に在する者はすべて、那須本家の命令のもとにあったのだ。だから、そのような立場の大関家の世継ぎに、福原資寛様を推戴すべきだということを申し上げている。なぜなら、資寛様は那須本家の御曹司なのだ。」しばらく、こちらは唖然として、声をも出なかった。それをあざ笑うかのように、那須資岳は傲慢な笑みさえ浮かべ、護衛の侍に同意さえ求めるように振り返った。これに対して、余程腹が立ったのか、大石隼人殿は「まことに笑止千万な話である。戦国の世ならばともかく、今は徳川様の御代である。上様の下に、那須家も大関家も、同じく臣下である。何を世迷言を言われるのか、顔を洗って、出直してまいられるがよかろう。縁のある方々だと思って、応対して居ればつけあがりおって、」と激しく罵倒した。それに対して、那須資岳は顔を真っ赤にして、「この陪臣が、ほえ面をかくな。」と我らを挑発して席を立ったのでござる。

それ以後、福原1派は我らの態度への報復だと言わんばかりに、ごろつきなどを集めて、領内で嫌がらせを繰り返すやら、さらには、暗殺隊と称する者たちを組織し、深夜、黒羽城下に侵入し、あろうことか大石殿を暗殺する挙にも及んできたのです。大石殿の死以後はこちらも気を付けていますから、命を落とす家臣は出ていないのですが、最近、敵は新たに馬庭念流の腕の立つ浪人者を雇ったとのことで、心を悩ませているところです。何とかしなければならないのですが、肝心の烏山藩が動かなければ、他領内に住まう者のことなれば、手の出しようもありません。今にして思えば、最初に那須資岳が申し出てきたときに、はっきりと断っておくべきだったのですが、こちらにも増恒君のお世継ぎの時に、那須家には大変、お世話になった経緯がございました。あの時には幕閣に力を持つ増山様や那須様のお力添えをいただいたのです。そういうことがありましたから、ついつい、持ち出された話があまりに荒唐無稽なこともあって、笑って、うやむやにしてしまおうとしたことが悔やまれてなりません。しかし、那須資岳を許しておくことはできません。わが領内を荒らしまわるその諸行は許しがたいことです。断固、排撃しなければなりません。」



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