芭蕉のじいさん、旅に出る。


第20話 お藤を変えた宝もの。

夜が白々とあけるころ、お藤と磯山格之進の二人は箒川の見えるあたりまでたどり着いた。川が朝日に赤く染まっている。「ここで別れよう。そろそろ人も動き出すころだ。わしと一緒のところを見られたら、お前にどんな嫌疑がかかるかもわからん。ただ、お藤。お前には何とお礼を言ったらよいか分からん。何しろ、3度も助けられたのだからな。世の中には私を見捨てて逃げていく男もいるし、お藤のように身の危険も顧みずに私を助けてくれるおなごもいる。」「でもねー、お侍さん。」「お侍さんではない。磯山格之進だ。」「まあ。」お藤は「おほほ」と笑う。「磯山の旦那はどうしても、ご自分の名を私に覚えさせたいようですね。」「そうだ。」「それにしても、自分の身の危険も顧みずになんて、大げさですよ。あの見張りが眠らなかったら、私だって、お助けすることはできなかったんですから。」「それは違うぞ、お藤。誰でも自分の身はかわいいもんだ。普通なら、役人に捕まった者を助けようとは思わぬものだ。」その時、お藤は不思議な自分を感じていた。“そういえば私、昔の私、里親が捕まって殺された時、怖くて、怖くて、逃げ回っていた。それなのに私、今の私、平気で人を助けてる。”

「でもねー。磯山の旦那は3度、私に助けられたと言われましたけど、そのうちの、最初は・・」ここで、磯山がお藤の言葉を遮る。「それはどうでもよいことだ。わしは3度、お前に助けられたのだ。この恩は忘れぬ。」「いいえ、旦那。私は旦那からとても大切な1両をいただいたのです。私はあの1両で、私は私の人生を歩んでいけると感じたのです。だから、旦那にこそ、恩を感じていますよ。」朝焼けの中を目覚めた鳥たちが餌場を求めて飛んでいく。「わしはこれから江戸に戻る。お藤、必ず、近いうちに江戸に来てくれ。住まいは奈良屋の才造が教えてくれるだろう。」「そうさせてもらいますよ。磯山の旦那。それじゃあ、お元気でね。私は、これから一座に戻ります。」お藤はしばらく磯山格之進の後姿を見ていた。そして、懐からあの1両を取り出した。お藤が大切に毎日磨いているので、ピカピカに光っている。そして、もう一つ。新たにできたお守り、芭蕉さんからもらった小さな招き猫。江戸の太一さんとお銀さんが造ったという招き猫である。お藤はいつものように、それを1両の上に乗せて、語り掛ける。「私には三つの宝物ができました。幸運を呼ぶと言う招き猫。そして、この一両。それに曽良さんから頂いた『愛してる』と言う言葉。恋とは別のものかもしれないけれど、あの言葉は確かに私を必死に守ろうとした言葉だった。この三つの宝物が私を変えてくれたのです。これまでは根無し草の人生だったけれど、今、私には故郷ができたような気がします。江戸に行けば、磯山の旦那が私を待っていてくれると言ってくれた。それに、何年かすれば、曽良さんたちも江戸に戻ってきているはずだし、それで江戸に行くことができたら、私の大事な招き猫を造ってくれた太一さんやお銀さんにも会ってみたい。私には会いたい人がたくさんいる。」

土倉の鳥追い一座の頭はその夜、一人でお藤を待っていた。一座の者が「お藤さん、おそいですね。」と言っても。「たぶん、黒羽で思わぬ接待を受けているんだろうよ。」と軽く受け流して見せていたが、心は乱れていた。”行かせるべきでなかった。“などと後悔も浮かぶ。月が出て、涙も出た。「きれいな月だな。」誰もいないことを確認もせずに、月の光の中で浮かぶ自分の影に語り掛けた。

夜が明けてきて、それでも、頭は待っていた。一番鶏が鳴き、二番鶏が鳴き、三番鶏が鳴いたころに、遠くに、こちらに向かってくるお藤が見えた。お藤が駆け寄ってきて、「頭、ただいま、起きてたんですか。」「おう、今、起きたところだ。」「頭、目が赤いですよ。どうしたんですか。」頭は照れたような笑いを無理に造る。「昨夜、村長に酒に呼ばれてな。飲み過ぎたようだ。」「頭、私は少し休ませてもらいますよ。」「おう、わしも、ひと眠りするか。」「それじゃ、添い寝ですね。うれしい。」「ばか。」頭は急に立ち止まった。「先に行っていてくれ、わしはやることを思い出した。」「あら、まあ、それじゃあ、一人寝になっちゃいますよ。」小屋へ入って行くお藤とお藤に顔を見せまいとする頭。頭を立ち止まらせたのは間違いなくお藤の言葉だった。その言葉が頭の目から大粒の涙をあふれ出させていた。今にも、「わーつ」と大声を出して、喜びが張り裂けそうになっていた。

ここは上那須地方を治める烏山城内である。曽良はその一室で、重役の車典膳と対座していた。「貴公、河合宗五郎殿が、幕府、大目付様の御用を務めていることは、鑑札を見せていただいたことで分かり申した。して、今日の御用の向きをお聞かせいただきたい。」車典膳には緊張があった。烏山藩を起こして、日が浅い。つまらぬ失態で、幕府から責めを負っては困るのである。曽良も相手が自分を大目付様の御用を務めている者だという言葉を否定しなかった。正確に言えば、曽良は大目付配下の侍ではない。だから、彼らの職分である大名家の幕命違反を暴き立てるようなことは曽良の役目ではない。ただ、相手がそう思っていてくれることは悪いことではない。「隣藩大関家の領内を荒らす者が、当藩内におりますことをご存知でありましょうか。」典膳は堀川殿のことだなとは思ったが、「いや、一向に存じ上げません。大関藩から無体なことをされたという領民の声はありましたが。」と如才なく反論した。典膳にしても、堀川殿は前藩主の身内である。那須家は戦国の世から、この地に根を下ろしている一族である。そのような者たちと軋轢を生み、当藩の藩政に波風が立っても困るのである。曽良は言う。「ご領内の堀川館の那須資寛様、首謀者は那須資岳という那須家の縁者だそうだが、彼らが浪人者やごろつきどもを集めて、大関家領内を荒らしていることは事実でござる。」典膳も大関家からたびたび使者が来て、取り締まりを求めていたことは知っていた。ただ、この件では自分の藩に今のところ実害がない。だから、どうしてもおよび腰になっていたのである。下手に大関家の尻馬に乗って、大騒動にでもなれば、当藩の存亡にもかかわることにもなる。曽良は続ける。「そのような者たちを野放しにするのは、天下のご政道にも反することであります。車殿には、是非、大関家とも連携され、この事態を収めることをお勧めいたします。幕命が必要ということであれば、私が動きますがいかが。」車典膳はあわてて、否定する。「いやいや、その必要はござらん。他の重臣らと図って、すぐに善処いたそう。」

福原の玄成寺では、重い空気が漂っていた。那須資岳と彼を取り巻くごろつきどもとの間が急に、これまでとは違うものに変わっていたのだ。それもこれも、資岳の持つ最強の手駒である暗殺隊が大関家の捕物隊に完敗したことにある。頭目の横田喜八郎が腕を切られ、凄腕の武芸者である磯山格之進が捕らえられてしまった。まず、やくざ者たちが騒ぎ出した。やくざを率いている兄貴格が資岳に申し出る。「お世話になりましたが、ここらで、あっしらは引き上げさせていただきたいんで、これまでの手間賃をいただけないでしょうか。」資岳は怒る。「何を言うか。金はことが成就した暁に払う。その約束だ。」「でもね。資岳様、話が違っていませんか。どこの世界に一介のやくざ者がお大名と戦をするなんてことがありますか。資岳様が出せないんなら、福原館に掛け合いに行っても良いんですよ。」資岳は慌てる。「待て、資寛様には私から話をする。」その話に、暗殺隊の浪人たちが割り込む。「待て、待て、お前たちだけが抜け駆けするのは許さん。」浪人たちはすでに刀を抜いている。一触即発の睨み合いと動転している那須資岳のいる部屋の障子が突然、がらつと開いた。
磯山格之進が睨みつけている。

磯山に威圧されて、暗殺隊の浪人もやくざもすごすごと道を開ける。磯山はまだ抜き身のままにしている浪人とやくざ者に「刀をひかんか。」と鋭く命じる。彼らも慌てて刀を鞘に納める。那須資岳の顔に喜色が浮かぶ。「ご無事でしたか。敵に捕まったと聞きましたので、心配しておりました。」磯山は暗殺隊の浪人に尋ねる。「横田はどうした。」「腕を切られまして、上州で治療すると言われて、帰られました。」磯山は無言で、寺に置いて行った持ち物を身に着けると、再び、那須資岳の前に立ち、「お世話になったが、わしはこれで失礼する。」資岳が留まるようにと懇願するが、「味方を置き去りにして、勝手に逃げていくような奴らと一緒に戦えるか。」という言葉を吐き捨てて、静かに立ち去っていった。

この磯山の最後の置き台詞が、残った者たちの間に妙な連帯感をつくった。暗殺隊の浪人が口火を切る。「ケツ。面白くもない。磯山の野郎が何を偉そうに言いやがる。横田殿も言っていたがな、あいつは本当に見掛け倒しだ。大関藩の雑魚どもに捕まりおって、これまで威張りくさっていた分、腹立たしい。横田殿はこうも言っていた。自分は上州に戻る。腕の傷を治すということもあるが、本当の目的は磯山に勝る武芸者を何人か連れて、戻ってくることだ。それまで、資岳様を守っていてくれ。こう言われたのだ。」那須資岳が感激したように、立ち上がる。そして全員を見回すようにして言う。「わしはこれから福原館に参る。そして、諸君に配る金を調達してくる。」この声にその場の者から「ウオー。」という歓声が上がった。一番腰の引けていたやくざの者たちさえ、一緒に声を上げていたのだった。



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