芭蕉のじいさん、旅に出る。


第17話 雲厳寺
雲厳寺は八溝山の中腹にある。八溝山から流れ落ちる武茂川に沿って、山中に入る。参道を歩むと木々を渡って流れ来る冷気が心地よく、芭蕉は深い息をする。彦造もまた、山道の涼しさを得て、生気を取り戻している。元気だ。口も滑らかになり、嫁がれたお嬢様の話をしながら、涙ぐむ。「雲厳寺への用は、このごろ伊之助がほとんどしてたもんで、わしもお嬢様にお会いしたかったんだが、出来なかったんですよ。」と愚痴も混じる。

芭蕉と彦造が街を出て、雲厳寺に向かい始めたころ、鳥追い一座の頭はお藤に黒羽への使いを頼んだ。いつもなら、下働きの男にさせるような仕事だったが、なぜか、この日はお藤に頼んだ。お藤は軽やかな足取りで、土倉から街道に出て行く。その後ろ姿見ながら、頭がつぶやく。「あの曽良と言う男も黒羽に向かっていた。お藤が黒羽に行けば、曽良とか言う男に会えるかもしれない。それで、お藤があの男と新たな旅立をするのなら、それはそれでよいのだ。それがお藤の幸せになるというのならな。」頭はそんな切ない思いで、お藤を黒羽に行かせたのだ。その頭の顔にはこれがお藤との最後の別れになるかもしれないという悲しみであふれていた。頭が絶対に人に見せない顔だった。

鹿子畑豊明率いる一団が二人の浪人者を追って道を急ぐ。だが、すぐに追いつくはずの二人の姿が消えた。「おかしい。」豊明が伊之助に言う。「おかしいですね。」伊之助も言う。一団が止まったのは、小高いところだ。あたりを見渡せる。そこから先は開けている。「途中の森の中にでも潜られてしまったのだろうか。そこへ鳥追い女が近づいてくる。豊明が女に尋ねる。「二人の浪人者がこの道を通って行かなかったか。」「いいえ、見ませんでしたよ。」女が答える。「やはり、途中の森に身を隠したのだ。少し戻るぞ。」一団があわただしく消えると、近くの木々の間から二人の浪人者が現れた。戦う覚悟ができていたと見えて、二人ともに、抜刀している。一人の浪人者が女に声をかける。「助かったぞ。」彼らが隠れるところを女からは見えていたはずだった。女は笑みを見せる。「急ぎなさいな。日光でお会いした旦那。」女は鳥追いのお藤だった。磯山格之進もお藤を思い出した。「助けられたのは2度目だな。」「うふふ。」とお藤は笑う。「行くぞ。」という横田の声で、磯山もお藤に背を向ける。その後ろ姿を見ながら、お藤は独り言を言う。「旦那は私に初めて、お金を支払ってくれた大事な人なんですからね、命を大事にしてくださいな。」お藤も彼らとは逆に背を向けて、黒羽に向かっていく。お藤は黒羽へいくことに、なぜか、心がざわついていた。このざわつきがなんなのか分からなかい。ほんの少しだけ理由があるとすれば、黒羽に行けば、あの曽良さんに会えるかもしれないというものだった。会って、どうなるというものでもない。それは分かっていた。分かっていたが、足は自然に黒羽に向かっていく。その足取りは軽いように見える。

先を行く浪人者たちの行方を探すために、山の中腹に登って、街道の様子を見下ろしている男がいる。曽良だった。曽良の目が遠くを歩く二人の浪人者の姿を捕らえる。「急がねばならん。大夫、離されたようだ。」曽良は急いで街道に戻るために、目を山すそに移す。歩いている鳥追い姿の女が見えた。「あれはお藤さんではないか。」瞬間、そう思った。そして、自分の愚かさを笑った。「鳥追い笠をかぶった人が・・・」ここで曽良はしばらく鳥追い女の後ろ姿を見ていた。そして、先ほどの言葉の続きを口にした。「すべてお藤さんであるわけがないではないか。バカだな。俺も。」

雲厳寺の堂宇は武茂川の流れを見下ろすように建っている。武茂川に赤い小橋が掛けられ、その先に長い石段があり、その上に立つ山門の威容さに圧倒される。深い森の中に忽然と現れる寺の様子に、驚かされるのである。芭蕉にとっては、深川の仏頂禅師からぜひ行くようにと勧められた寺である。「彦造さんや。」芭蕉が語る。「彦造さんにとっては、このお寺は鹿子畑家のお嬢様との絆を結ぶ場所かもしれませんけどね、私にとっては、とても大事な人との絆を結ぶ場所なんですよ。仏頂禅師様と言って、私が江戸の深川で、それはそれはお世話になったお坊様が若い時に、このお寺で修行されて、今も修行場所の小庵が残されていると言われているので、ぜひ訪ねたいと思っていたところなんですよ。」芭蕉にとっては旅の目的の一つがここを訪ねることだった。ここで芭蕉は思わず吹き出すように笑った。「そうなんですよ。彦造さん。仏頂禅師様には面白い話があるんですよ。辰巳芸者に梅乃という売れっ子の芸者いるんだけれど、仏頂禅師は彼女の笑顔にも素知らぬ顔で、ぼそっと言った言葉が“仏道修行に女はいらぬ”だったそうです。それで、梅乃が怒って、江戸の街に、愛想のない顔の代名詞として、仏頂面なる言葉をはやらしてしまったんですよ。ご存知ですか。仏頂面。」こう言って、芭蕉は二度三度と思いだしては笑い。笑っては思い出すということを繰り返えしていたのたが、それもやがて、長い石段に閉口して、荒い息を吐き出すことに変わることになった。

雲厳寺の庫裏で、芭蕉は住職の津田源光や奥様から温かい接待を受けた。住職は仏頂禅師とは日ごろから文のやり取りを欠かしたことは無く、つい最近の文には江戸の俳諧師匠、芭蕉翁がおいでになるので、よろしく頼むと書かれていたとのことであった。住職は仏頂禅師を尊敬していて、何事にも仏頂禅師に相談することが多く、特に最近は、大関家にまつわる悩みなども相談していたということだった。芭蕉は江戸での仏頂禅師を思い出していた。ならば、「他意はない。他意はない。」と言いながら、芭蕉に黒羽行きを勧めたのは、芭蕉に、大関藩への力添えを求めていたのかもしれなかった。仏頂禅師は大関家で世継ぎ問題が起きた時、江戸藩邸の動揺を抑えることに、芭蕉の力が大きかったことを知っていた。だから、芭蕉に黒羽に行ってほしかったのではないか。芭蕉は深いしわを帯びた仏頂面を思い出して、心の中で笑った。騙されたわけではないが、仏頂禅師に導かれて、この地に来たのだ。深い森の中の雲厳寺にはセミの声だけが鳴りやむこともなく聞こえている。それが逆に静けさを感じさせるのである。芭蕉は修行中の仏頂禅師様の話を聞きたくなった。どのような修行をされて、あのような御仁になられたのか。その秘密を知りたかった。二人の会話は修行中の仏頂禅師におよび、住職の案内で、今も残る小庵へと芭蕉は案内された。崖の上に立つ、その小庵に仏頂禅師の姿が思い出された。今も仏道修行、一筋のお方だ。さぞや、この地にあった若き時代には厳しい修業をなされたことだろう。時折、森の中からコツコツと木をたたく音がする。木啄(キツツキ)だろう。源光和尚は「あの厳しさにはついていけませんでした。」と笑った。

木啄も庵はやぶらず夏木立 芭蕉

雲厳寺から黒羽の鹿子畑豊明の屋敷に戻った芭蕉だが、落ち着かなかった。曽良がなかなか戻ってこなかったからである。夕刻になろうとするころ、鹿子畑邸は急にあわただしくなった。「伊之助が切られた。」という声が玄関の方から聞こえ、それとともに、邸内のすべての人の足音が玄関にあわただしく向かった。「大丈夫か。」「医者だ。医者だ。」などと言う声が飛び交った。障子の隙間から見ると、伊之助と呼ばれた若者が戸板に乗せられて、運ばれていく。暫くすると医者が来て、医者が帰るころになって、やっと邸内は静かになった。

豊明が芭蕉のいる客間に現れ、「お騒がせしてもうしわけありません。今、食事の用意をさせておりますので、しばらくお待ちください。」「何やら、大変な時にお邪魔することになって、申し訳ないことだ。それよりも、あの若者の容態はどうなのじゃ。」「はい、切られた時には、血も出ましたので、こちらも動転してしまいました。今は熱が出て、うんうんうなっておりますが、医者によれば、命には別条ないようです。」「それを聞いて安心した。」「お師匠も、同道の曽良さんがまだ帰ってきていないとのこと。心配されていると家人より聞きました。誰か捜しに行かせますか。」「いいや、見かけによらないかもしれないが、曽良さんは武士でね。しかも一刀流の達人なんですよ。だから、そちらの方の心配はしていないですがね。曽良さんが私のそばにいないことのほうが心配なんですよ。世の中、どこでどう恨みを買っているか分からないといいますからね。」豊明は師匠の芭蕉が何を言っているのか理解できなかった。ただ、曽良が武士で、一刀流の達人だということに一つの光明を見出していた。「あとで、曽良さんに頼んでみよう。」豊明はつぶやいた。



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