芭蕉のじいさん、旅に出る。


第14話 鳥追いのお静

芭蕉が言う。「私は昨夜、悲しい夢を見ましたよ。だから目が覚めても、心が重くてたまらないんですよ。」曽良も言う。「師匠もそうでしたか、私もなんですよ。」ここは日光北街道,玉生の宿である。目覚めの悪さが二人を包んでいるのである。その原因は鳥追いのお静という女性との出会いだった。

芭蕉と曽良とお静の3人は日光から今市を経て、日光北街道を進んでいた。芭蕉は宗匠頭巾に頭陀袋、素足に草鞋と言った旅姿で、曽良も日光での僧衣を脱ぎ捨てて、元の町人姿に戻っていた。ただ、普通の町人とは違い、腰には刀をさしている。今市から3人は日光北街道に入る。奥州街道への近道である。途中の鬼怒川を渡るには船場の渡しで船に乗る。その船場の渡しに大男が待ち構えていた。「頭。」静が小さな声で言った。その男が怒鳴った。「やい、静。よくも恩をあだで返すようなまねをしてくれたな。簡単に一座を抜けられると思ったら大間違いだ。」勝気な静が震えている。曽良が静をかばう。「無体なことはやめろ。この人は嫌がっているではないか。」「どこのどなたかは存じませんがね。その女は私ども一座の者なんですよ。返してもらいましょうか。」一座の頭と言われた男は畳みかえる。「やい。お静。鳥追い女が俺から逃れられるとでも思っているのか。街道沿いのどこにも俺の目や耳があるんだよ。」

男がづかづかとお静に近づく。お静の腕をつかもうとする男の手を曽良は払いのける。「お前さん、誰だか知らねえが、邪魔だてすれば痛い目に合うぜ。」男はすごむ。曽良が言う。「お静さんには指一本触れさせん。」「おう、そうかい、それじゃあ、遠慮はしねえ。」曽良は男の殴りかかってきた腕をとって、投げ飛ばした。男が転がり、怒りで、顔を真っ赤にさせた。「この野郎。」男は棍棒を握って、振りますが、空を切る。曽良が叫ぶ。「お静さんは私の好きな人だ。私が守る。」曽良は刀を抜き、男の持っていた棍棒をたたき切り、そのまま、この男をこの世から消すと決めた。お静のためにも、この男を消してしまおうと上段に刀を振り上げた。殺気が男に伝わり、小刻みに体が震える。頭と呼ばれた男は尻もちをつき、顔をこわばらせる。「待ってくださいな。」その時、曽良の後ろに隠れていたお静が曽良の前に出た。「お頭、御免なさいね。私が悪うございました。一座に戻りますので、許してくださいな。」そして、男の着物についた泥を払いながら、曽良の方へと振り返る。「曽良さん、ありがとう。」それは曽良にしか感じられないほどの小さな声であった。

去っていくお静の姿を見ながら、曽良の目に涙があった。日光からの道すがら、お静は自分の生い立ちを話していた。「私はね、自分の二親の顔を見たことがないんですよ。どこかの農家の軒先に捨てられていたと言うんですけれどね、物心がついたときには、すりの山蔵と言う人の子供になっていました。山蔵の元には、私と同じような境遇の男の子が居ましてね。名前を定吉と言うんですけど、3人で旅をしながら、私がおとりになったり、定吉がおとりになったりしながら、きわどい旅を続けていました。最初は日光あたりで、荒稼ぎをしていたんですけど、顔が知られるようになり、次は宇都宮、そして、古河へと渡っていったんです。でもね〜。古河でね、山蔵さんが捕まってしまったんですよ。なんでも、前科があるからと死罪になったという話を聞きました。私と定吉は必死で逃げました。神社の軒下などを転々としていたんです。食べるものと言ったら、お供え物をいただきました。でもね〜。二人の旅はとても楽しかった。人生で、あんな楽しい旅はなかった。緊張や寒さで震えることもあったんですけど、定吉の身体を温めてやると、定吉が笑うんですよ。今まで見たことがないようなきれいな笑顔で笑うんですよ。山蔵から解き放たれたこともあるのだけれど、私達、すりをしなくてよくなったことがとてもうれしかったんですよ。すりをするのはとても怖くて、いやで、いやでたまらなかった。そこから自由になりたかった。それが現実になったんですよ。でもね〜。結局、土地のやくざ者に捕まってしまいました。そして、鳥追いの一座に売られたんです。鳥追い一座と言っても、ゆすりやたかりを平然とするやくざみたいなものでしたよ。私は、そこの頭の色にされました。いやでね。でも、食べるためには、仕方がなかったんですよ。定吉の方は下働きのような仕事をしていました。私は一応、頭の色ということで、ひどい仕打ちを受けることはなかったんですがね、定吉の方はみんなからいじめを受けて、夜中には一人で泣いていました。悲しくても、どうすることもできなかったんですよ。狭い一座の中ですからね。その定吉が3日前に死んでしまったんです。死んだ定吉を見て、驚きましたよ。痩せて、ボロボロになっていたんですよ。私、半狂乱のようになって、泣きました。そして、そのまま、一座から抜け出してきたんです。」

お静の話は独り言のようだった。「いつも、旅から旅の生活でした。お金だって、自分で稼いだことなんてなかったんですよ。盗んだり、頭から恵んでもらったり。だから、うれしかった。あの1両。間違いなく、私が稼いだものなんですよ。そうでしょう。」曽良はそのころには、「女」などとは呼ばなくなっていた。「お静さん。」と呼んでいた。「あのお金はお静さんが、あのサムライからもらった手間賃ですよ。誰のものでもないお静さんのものですよ。」

お静が言う。「旅人には2種類の人がいてね。一つはあなたのように、故郷があって、故郷に帰れば、暖かい家族や仲間が待っているような人さ。もう一つは私のような流れ者。根無し草のように、ただ彷徨うだけ。そんな旅はとても寂しいものですよ。」

「お静さん、もし、良かったら、私たちと一緒に、これから旅をしないか。根なし草なんて言うもんじゃねえ。わしらも、この奥州へ向かうという長旅だ。旅の露として、消えるかもしれねえ。でも、もし、この旅が終わり、江戸に帰ることができたら、江戸で一緒に暮らそうじゃないか。」芭蕉が頷き、曽良が笑い。とまどうお静の足も二人と同じ道を歩いていた。

鬼怒川を渡り、船を下りると、芭蕉はすっかり元気をなくしていた。一人の女性の人生の重さに耐えられなくなっていたようだ。足取りが重く、荒い息を吐く。曽良が「師匠、大丈夫ですか。」と気遣う。本当は曽良の方がもっと、悲しいはずなのだが、必死に耐えているのだろう。農家があり、裸馬がいた。曽良は、その農家の主に馬を貸してくれと頼んだ。農家の主は「それはお困りでしょう。玉生くらいまでなら、そこで放せば、馬はひとりで帰ってきますから、お使いなさい。」と言ってくれた。

馬に芭蕉を乗せ、曽良は手綱を取った。農家の二人の子供が馬の周りを飛び跳ねるようについてきた。姉と弟らしい。田には水が張り、田植えの済んだ苗が光を浴びていた。芭蕉はその娘に名前を尋ねる。娘は恥ずかしそうにしていたが「かさね」と答える。曽良はその娘の顔に、お静を重ね合わせていた。お静と定吉の旅も、この兄弟のようであったに違いない。そして、何もなければ、今も、お静と一緒の旅であったはずであった。

かさねとは八重撫子の名なるべし  曽良

一行は玉生についた。日光北街道の小さな宿場である。ここで、曽良はお礼に小銭を馬につけて、元来た道へと帰した。二人の子供も、来た時と同じように、楽し気な様子のままに、馬と一緒に坂道を駆け上がっていった。



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