芭蕉のじいさん、旅に出る。


第13話 裏見の滝
その女は鳥追いのお藤と言った。鳥追い姿の芸人として、普段は一座とともに旅をしていたが、この時は、わけあって、一座と別れて、昔鍛えたすりの技で、糊口をしのいでいた。お藤は手先が器用だったのである。そのお藤の前に、磯山格之進が現れた時に、お藤が見たものは磯山の懐のふくらみだった。あの重さは財布だ。それも大金が入っている。お藤は直感した。そして、お藤は、そのサムライの注意が、最初はお医者さんのような旅姿をした男、次に、お坊さんに注がれて、全く、自分には向けられていないことを察知した。今だ。

「おっと、ごめんなさいよ。」磯山にぶつかった女が詫びていく。磯山も女を見たが、関心は僧形の曽良だった。しかし、もうその時には曽良も武芸者としての気配を消していた。「違うか。」磯山はぼそっとつぶやいて、再び、歩き出した。

だが、曽良は女の一部始終を見ていた。「よりによって、余計なことをしてくれる。」曽良は舌打ちをした。あの男のことだ。すぐに異変に気づき、引き返して来るに違いない。曽良は急いで女の後を追った。だが、追いついた先で意外なことが起こっていた。芭蕉と鳥追い女がむつまじく話をしているのである。「曽良さんや。この人はお静さんと言って、一座と別れて、一人旅だというんだよ。妙に気があってね。旅を一緒にしようということになってね。」曽良はすぐに察知した。女は芭蕉師匠を隠れ蓑にしようとしているのだ。すでにサムライの財布はひそかに師匠の懐に移っているのだろう。だから、侍が戻ってきて、女をせめても、女からはサムライの財布が出てこないというわけだ。師匠も師匠だ。「女、」曽良が言う。「曽良さんや、この人の名はお静さんだよ。」曽良の声に芭蕉がむっとした調子で突っかかる。

「女。悪いことは言わん。黙って、あのサムライに財布を返して来い。」芭蕉はきょとんとしている。女は何を言ってるんですかと言うように曽良を見返す。「お坊さん、何を言っているのか、わかりませんねえ。何ですか、私が誰だか知らないサムライの財布をすったとでも言いたいんですか。」芭蕉も加勢する。「そうだよ、曽良さん、この人はそんなことをする人ではありませんよ。」お静は悲し気な顔を芭蕉に向ける。「このお坊さんとお知り合い何ですか、師匠。」「そうじゃ、私の弟子で、旅の連れじゃ。」「そのお連れさんが、私に嫌疑をかけたってわけですか。それじゃあ、私を裸にでもなんでも好きにするがいいでしょう。でも、その財布が出てこなかったら、どうされるんですか。」お静はすごむ。「女。無駄な芝居はよせ。どうせ、財布は師匠の懐にでも移っているのだろう。」お静はそっぽを向き、芭蕉は慌てて自分の懐をまさぐった。「曽良さんや、どういうことだね。知らない財布が私の懐にあるよ。」芭蕉は不審そうに、小判で膨れた財布を取り出した。お静は曽良をきつい目で睨むと、芭蕉から財布を取り上げ、「分かりましたよ。この財布、さっきのサムライに返してきますよ。」曽良は低い声で言う。「必ず、返してもらわないと、こちらも困るが、お前さんも必ず切られることになる。あのサムライを甘く見るな。」その低いどすの効いた声がお静の気持ちを変えた。その財布を猫糞してやろうとする気持ちが失せて、お静は元来た道を戻り始めた。

磯山格之進は財布のないことに気が付いた。「あの女だ。」怒りで体が震える。早足となり、来た道を引き返す。林の中にでも入られたらまずい。注意を左右にも張り巡らす。だが、その時、その前方で、磯山を見付けて、大きく手を振っている女がいた。磯山に向かって手を振りながら、駆けてくる女が見えた。手には磯山の財布が握られている。はあ、はあと息を切らせて、お藤が財布を磯山に渡した。磯山はあっけにとられていた。すられたと思ったことが間違っていたのだ。「すいませんね、お侍さん、私、鳥追いの踊りの練習で、変な動きをしていたらしいんですよ。それで、お侍さんとぶつかってしまった拍子に、お侍さんのお財布を落とさせてしまったようなんです。その時には、私は気が付かなかったですけど、後から来たお坊様が私が落としたものと勘違いされて、届けてくれたものですから、私、お侍さんに渡さなければと思って、走ってきたんです。」磯山は財布を開け、中身に間違いのないことを確認すると、今までの怒りが感謝に変わっていた。怒りの気持ちが大きかった分、感謝の気持ちも大きかった。「悪かったな、女。」磯山は財布から1両取り出すとお藤に渡し、こう言った。「わしはお前に財布をすられたとばかり思って、怒りに震えていた。悪かったな。これで勘弁してくれ。」

お藤は茶店の縁台に芭蕉と座り、もらった1両小判を見せびらかかしていた。「やっぱり、善行はするもんですよね、お師匠。」お藤はその前の悪行をすでに忘れている。別の縁台に座っている曽良が聞く。「そのサムライ、元の道へと帰っていったか。」お藤はそんなことは知らないと言わんばかりに、「たぶん、そうじゃない。そこで別れたんだから。」曽良はなおも聞く。「あのサムライ、何か言っていなかったか。」お藤は考え込むようにして、言った。「そう言えば、別れ際に、その僧形の者はわしのことを何か言っていなかったか、なんて聞いたわ。」自分のことを僧形の者と言ったという言葉を聞いて、曽良はあの者には自分の仮装がばれていることを察知した。

お藤はこのあたりの地理に詳しいようであった。お藤が勧めるのは華厳の滝であった。男体山の山すそには大きな中禅寺湖があって、その湖から流れ落ちる華厳の滝は日本一の滝だというのである。そのほかにも、中禅寺湖の周りには湯滝や龍頭の滝など、勇壮な滝の多いことを夢中で話している。地元を自慢したいのであろう。だが、お藤はそこまで行くのが大変だと話す。大谷川の上流で、華厳の滝にたどり着くためには、急峻な山道をひたすら上り続けなければならない。今から行くには遠すぎる。芭蕉は急峻な山道を登り続けるという言葉で、行く気が失せている。「どんな名高い滝であっても、遭難するようなめにあってもねえ。」と曽良を見る。曽良は磯山のことを考えていた。この道ならば、多くの人が華厳の滝を目指すと考えるだろう。ならば、師匠の意見に従おう。「日光には、華厳の滝とは別に、絶景の3滝というのがあるそうではないか。」「日光の絶景の3滝と言うのは太閤見下ろしの滝、裏見の滝、相生の滝を言うんだけれど、確かに華厳の滝にはかなわないけれど、どれも美しい滝だわ。この近くならば、裏見の滝ね。大谷川の支流の荒沢川の上流にあるんだけれど、その名前の通り、滝の裏側を見ることができる滝で、そこに不動明王が祭られていると言うわ。」

芭蕉と曽良、それに鳥追いのお藤の3人は裏見の滝に行くことにした。春もだんだんと夏へと衣替えをして、緑も色濃くなっている。森の涼しさが歩き疲れた体を冷やしている。山道を登る。滝の音が聞こえてくる。

暫時は滝に籠るや夏の初 芭蕉


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