芭蕉のじいさん、旅に出る。


第11話 今市
今市は日光街道20番目の宿場で、日光までの最後の宿だ。ここは日光街道と芭蕉たちが歩いてきた例幣使街道、それに会津西街道、日光北街道の4街道が交叉するところである。芭蕉たちがこの宿についたころには、日はとっぷり暮れかけていた。鹿沼の宿を出るのがずいぶんと遅くなったうえに、争いに巻き込まれたからである。一行はこの宿で泊まらざるを得ないのだが、紀文は鹿沼のような木賃宿は嫌だと言いだした。「眠れたものではない。」というのが、その理由だ。芭蕉と曽良は白目をむく。「俺たちはお前のような金持ちではない。」「これからの長旅にはさらに金が必要になるのだ。」それに対して、紀文は“そんなことは分かっているよ。”と言わんばかりに、こんな提案をした。「どうだ。ここは普通の宿に泊まろうではないか。私は日光で増田屋という宿に、厄介になることになっている。そこには江戸から金が届いているはずだし、届いていなかったとしても、いくばくかの金ぐらいは融通してもらえるだろう。増田屋には江戸でずいぶんと面倒も見たのだ。どうだろう。ここでの支払いの倍を返すということで、今市では普通の宿に泊まろうではないか。」

芭蕉と曽良は躊躇している。商人の紀文が信用できない分けではないのだが、紀文と言う人間は結構いい加減なところもある男なのである。特にお金に関しては、人様のお金も自分の金も区別しないところがあるのだ。その時、一つの宿から、そこの主人らしき男が現れて、紀文に声をかけた。「あの〜。失礼ながら、紀伊国屋文左衛門さまではありませんか。」紀文も振り返り、声の主を見る。「わたくし、日光の増田屋の分家で、利右衛門と申します。本家より連絡がありまして、“近々、江戸の紀伊国屋様が通られるから、気を付けていておくれ。できたら、一時でも、休んでいただいて、その間に、紀伊国屋様が到着したことを知らせておくれ。”と言われていたところでございます。」紀文は相好を崩す。「今、今市で、宿を探していたところです。増田屋さんの方ですか。そうですか。私は紀伊国屋文左衛門です。増田屋さんとは江戸で親しくさせていただいたところです。」「いえいえ、本家が申しますには、江戸で大変お世話になったとか。そういうことでしたら、どうか、今日は私共の宿に御逗留ください。」増田屋利左エ門は紀文を下にもおかぬ様子で宿へと案内した。そして、芭蕉と曽良に対しても、「お供の方々も、どうぞおいでくださいませ。」と笑顔を向けたのだった。

芭蕉と曽良は多少面白くないこともあったが、出てきた料理は極上だった。鮎の塩焼きも湯葉を使った料理も旅に出てこなければ味わえないものばかりだった。利左エ門は相変わらず、芭蕉たちを「お供の方々」と言うのだが、紀文も否定しないし、二人も料理や酒に夢中になっていたので、その言葉が利左エ門ばかりでなく、宿の女中たちにも定着してしまったことを知らなかった。そして、風呂に入り、今日の疲れのままに、夜が更けていったのである。

翌朝、出発の時を迎えた。朝日がまぶし気であった。芭蕉は利左エ門に言った。「昨夜の宿料はいかほどかな。」もちろん、紀文に聞こえるようにである。利左エ門は笑顔で答える。紀伊国屋様から宿賃などもらったら、本家から叱られます。」紀文はにんまりとする。曽良が言う。「そうはいかぬ。こちらもタダで、飯食いさせていただいたでは立場がない。」「そう言われましても・・・。」と利左エ門が渋る。「ならば、こうしてくれ。ここに2両ある。昨夜の料理ならば2両では足りぬかもしれぬが、これで宿賃としてくれ。それで、わしらの立場も立つ。」

今市の須田屋の店先には、須田屋の奉公人たちが主人の利左エ門を真ん中にして、紀伊国屋文左衛門の一行を見送る。「ありがとうございました。」利左エ門が言う。「それでは儀助、皆様を本家まで案内しておくれ。」儀助というのは今市須田屋の下働きで、若く、足取りも軽い。彼は文左衛門の荷物を背負い、「よろしくお願いします。」とにこやかだ。彼にしても天下の紀文の道先案内人に選ばれたことに、誇らしげなのである。

今市から日光まではすぐである。芭蕉は儀助が自分の荷物ではなく、紀文の荷物をもって進むことに面白くない思いをしていた。「紀文は良いですね。私などは荷物が重くてね。」などと嫌味を言いながら歩いている。儀助はそんな芭蕉を見ながら変な供だなと思ったが、黙っていた。紀文はそんなことには無頓着だ。紀文が曽良に言う。「2両も出して、良かったんですか。これからの旅のお金が無くなってしまったんじゃないですか。」曽良は涼しげに答える。「なあに、日光の増田屋さんと言うところにつけば、あの2両は倍の4両になるんですよ。忘れたんですか。宿賃は2倍にして返すと言ったじゃありませんか。」芭蕉も「紀文は確かにそう言った。」と頷く。紀文は二人にしてやられたと思ったが、おかしくなって笑った。楽しい旅なのである。「全くのスカンピンの旅というのも楽しいものですよ。ねえ、儀助さん、この3人の誰も、今、一文も持っていないんですよ。」儀助は怪訝そうな顔を隠さない。「だからね。ここで山賊たちが襲ってきても、襲い損なんですよ。」儀助はまともな答えをする。「今市から日光までは開けていますから山賊は出ません。それにここは東照宮様の御神域なんです。そんなことが起これば、あっと言う間にお役人たちが駆け付けてまいります。それが分かっていますから山賊もいません。」

芭蕉の一行が旅立った後で、今市の須田屋ではひと悶着が起こっていた。最初のきっけかは主人のこの言葉からだった。「どうもおかしいね〜。確かにお金はいただいたんですがね。皆、びた銭なんですよ。それも1両と少し。確か、あのお供の方は2両とおっしゃったんですがね。でも、まあ、無料と思っていたので、1両ももらえれば御の字なんですがね。でも、あの方々は天下の紀伊国屋文左衛門さまのご一行なんですよ。2両は金色にかがやく小判でいただけるものだと思っておりましたよ。」女中も変だという。「旦那様、あのご一行、どうも変ですよ。お供の人たちが、天下の紀伊国屋文左衛門さまに向かって、まるで悪党仲間のような口の利き方をしているのを聞いてしまったんです。もしかしたら、偽の紀伊国屋文左衛門ではありませんか。」利左エ門は慌てている。「でも、あの方はご自分を紀伊国屋文左衛門だと名乗られましたよ。」「それは旦那様があの方を紀伊国屋文左衛門様ではありませんかと呼びかけたからではありませんか。」「そうだね。確かに私から呼びかけたね。」「それにあの紀伊国屋様はとても軽薄そうでした。」「そうだね、軽かったね。」利左エ門はさらに慌てていた。「それじゃあ、私はなんていうことをしてしまったんだろう。まあ、宿賃は1両と少し、一応もらっているから、損害はないけれど、本家には紀伊国屋様のご一行が今日の昼前には到着されると伝えてしまっているんですよ。どうしよう。奴らはきっと、本家でも紀伊国屋文左衛門でございと居座るに違いありませんよ。」利左エ門は本家の様子を探らせるために、すぐに番頭を日光に向かわせた。それでも気が気ではない。落ち着かない。だが、そうこうするうちに、その番頭と儀助が連れ立って戻ってきた。儀助は心配そうな利左エ門に向かって言う。「旦那様、あの方は本物の紀伊国屋文左衛門さまでございました。私も道中不思議に思いましたが、日光の本店に着いて、大旦那様が再会を喜んでおられました。なんでも大旦那様は江戸に行かれていて、紀伊国屋様とも面識があったそうです。」利左エ門はふ~と息を吐いた。そして、「それにしても、不思議なお方だったね〜。とても大店の主とも思えないほどに気さくな方でしたね。天下に名を成す方とはあのような方なのでしょうかね。」と周りの奉公人たちにつぶやいた。「でも、紀伊国屋さまもそうだけど、二人のお供も変でしたね。紀伊国屋様は風流人と聞いていましたけれど、お供の方々は風流のふの字もありませんでしたね。無粋でしたね。乱雑な方々でしたね。」

そのころ、日光で芭蕉がくしゃみをしていた。「どうしました?師匠」曽良が尋ねる。芭蕉は「誰かが私の悪口を言っているに違いありませんよ。」と答える。「でもね。曽良さん、私はね、人から鉄砲で狙われるほど、他人を傷つけたことなどありませんよ。」曽良は違うと言ってあげようかと思う。師匠はまだあの事を自分のことだと思っているようだ。でも、黙っていよう。自分のお役目を知られたくはない。


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