芭蕉のじいさん、旅に出る。


第9話 日光街道杉並木

日光例幣使街道、日光西街道、あるいは壬生街道とも呼ばれる道は楡木から鹿沼を通って、今市に抜け、鹿沼の先からは深い森の中に入る。そこには日光杉並木が日の光をさえぎるほどに巨木となり、整然と道の両側に立ち並んでいる。松平正綱が20年の歳月をかけて、植樹したとされるものだ。鹿沼と今市の間には文挟や板橋のような小さな集落はあるが、それ以外の場所は深い森が道の両側からせり出している。当然、そのようなところには旅人を狙う輩も跋扈する。夜間の一人旅などは真っ先に狙われるのである。権蔵という猟師がいる。夏場はもっぱら那須方面の山々で猟をしているのだが、冬場から春先にかけては文挟あたりまで南下してくる。猟師だから普段は山に入って獲物を狙うのだが、那須へと戻るこの頃は仲間の五平を誘って、旅人の財布を狙う荒稼ぎを始める。那須に戻る駄賃と言うわけである。

芭蕉の一行を見付けた奈良屋の太七は店の中の磯山格之助に合図を送る。「奴らだ。」短い声を発する。磯山の目が光る。太七が立ち、磯山が続く。二人は茶屋の裏から街道の脇道を進む。芭蕉の一行とだいぶ離れたあたりで、街道に出る。二人はちらりと遠くを歩む芭蕉たちを見る。磯山が言う「あの3人か。」太七が「あの3人だが、目的は一人だ。」「どいつだ。」「俳諧師のほかに、町人体の男が二人いるだろう。そのうちの旦那風の男だ。だが、この際だ、3人まとめて片づけたほうが良いだろう。後腐れがない。」二人は早足で歩き出した。太七は言う。「文挟まではまっすぐな道だから、事を起こすには適さない。誰かに見られてしまうかもしれない。たぶん、その先の板橋との間が良いと思う。あっしが先に行って、適当な場所を探しておきますから、磯山の旦那は後からおいで下せい。」そう言うと、太七は駆けるように先を急ぎ、次第に磯山との間も離れて行った。

権蔵は杉の大木の陰から一人の旅人を見付ける。素早い足取りだ。権蔵が傍らの山刀を掴んだ。そして、鉄砲を抱えている五平に合図を送る。「あいつは金回りがよさそうだ。」権蔵が目をつけたのは奈良屋の太七だった。確かに金回りは悪くないのだが、権蔵にとっては相手が悪かった。太七はただ早足で歩いてきたのではない。周りの様子を見ながら、紀文を襲う場所を探していたのだ。当然、木陰にうごめく怪しげな人影も捉えていた。「ふ〜ん、追剥か。なら、このあたりが良いということか。」太七の独り言が低く消える。間合いを読みながら男が現れるのを待つ。歩調を弱める。「奴らに化けて、紀文を殺すのが、良いかもしれん。」そうなるとあまり早く磯山が現れては彼らを逃がしてしまう。素知らぬ風をよそいながら、後から来る磯山との距離を計算していた。

太七は歩みを抑えたが、追剥がなかなか現れない。仕方なく太七は急ぎ旅で疲れたとばかりに、路肩に腰を下ろした。山賊が潜んでいる目の前である。権蔵は思わぬ展開に「ついている。」と思った。早足で歩いてきた獲物が目の前で止まってくれたのである。下手をすれば、獲物の足は速く、逃げられてしまいそうで、慌てて街道に出てきたのである。そして、太七に声をかけた。「おい、旅の人。どうした。」「ちょっと、木陰で休ませてもらっていますよ。」そう言いながら太七は油断なく、権蔵を見ていた。権蔵は言葉の穏やかさとは裏腹に、急に、この山刀が見えねえかと脅しをかけてきた。「何をしやがる。」太七は後ろに飛びのく。「命まではとらねえ。身ぐるみ脱いでいきな。」「へん、身ぐるみを置いていくのはそっちの方じゃねえか。」太七は権蔵には聞こえない小さな声で噛みつく。太七は巧みに、権蔵を磯山の来た道の方へと誘う。権蔵が出ると、その分、怯えた様子で、後ずさる。権蔵が駆けると、太七も駆ける。止まると止まる。権蔵は太七のたくらみを知らない。「やけに、すばしっこいじゃねえか。」権蔵は息を切らしている。重い山刀を振り回している分、体力を消耗しているようだ。曲がりくねった道の端に磯山の姿が見えた。磯山の姿を見て、太七は大げさに騒ぎ出した。「助けてくれ!命ばかりは助けてくれ。ほら、財布もお前にやる。」これを聞いて、にやにやしながら権蔵が太七に近づく。しかし、二人の距離は縮まらない。「命を助けてやるから、財布をよこせ。」権蔵が怒鳴る。「そんなことを言って、渡したら殺すだろう。」太七は巧みに権蔵を誘導する。そして、自分の体で、後から来る磯山の姿を見せないようにしていた。

磯山は太七が大声をあげた瞬間から、太七の身に何かあったことを察知した。坂道を駆け上がり、道がくねった先で、二人の対峙する姿を見た時、権蔵は息を切らし、磯山に背中を見せていた。そして、磯山は権蔵越しの太七の顔を見て、太七にたくらみがあることを察知した。権蔵の方は驚いた。刀を抜いた武士が急に後ろに現れたからだ。逃げようとする権蔵の前に、いつの間にか太七が行く手を塞いでいた。「なんだ、てめいは?」権蔵の声に、「お前さんに、身ぐるみはいでいって欲しいんだよ。」太七の落ち着いた低い声が響く。権蔵は恐ろし気に声が上ずった。「俺には金目のものなんてねえ。」「いいんだよ。その着ている汚いものを置いて行けば。」「何を言いやがる。」権蔵が何とか、太七を威嚇しようとするが、後ろからは磯山の刀が風を切る音を立てる。権蔵が「ひえー」という悲鳴にも似た声を出す。そ、その時、“だ〜ん”という鉄砲の音が谷中に響いた。五平が権蔵の危機に鉄砲を撃ったのである。

鉄砲の音は谷中に響いた。その音は街道を進む芭蕉たちにも聞こえた。「なんだ。」最初にあたりを見渡したのは曽良だった。不安そうにあたりを見渡したのは紀文だった。「猟師が獲物を狙ったんじゃないのかい。」とのんきなのは芭蕉だった。「こんな街道で、猟師が鉄砲を撃つはずがありません。ちょっと様子を見てきましょう。」曽良は二人を残して、駆けて行った。残された二人は顔を見合わせる。「曽良さんが居ないと、二人だけでは不安ですよね。」紀文が言った。芭蕉も頷いた。二人も曽良を追って、駆けだした。

鉄砲の玉は幸いにも、誰にも当たらなかった。しかし、権蔵に逃げる隙は与えた。権蔵を磯山が追いかけ、鉄砲の鳴った森へと太七が入り込んだ。権蔵は重い山刀を放さない。磯山も刀を持っているが、山刀ほどではない。二人の距離は見る見るうちに縮まっていく。磯山はすでに太七のたくらみを理解していた。こいつの着ているものを奪えばよいのだ。多少血はつくだろうが、殺したってかまわない。できれば森の中で眠らせよう。磯山が権蔵を道路脇に追い詰め、刀を振り上げ、どうしようかと思案した時に、磯山の右手に痛みが走った。誰かが礫を投げたのだ。礫はなおも、一つ、二つと遠くから投げられてきた。磯山はゆっくりと後ろを振り返る。町人体の男が、刀のつばに手をかけながら、駆けてくる。「あいつは?」磯山は思う。「あいつは紀文と一緒にいた男ではないか。」



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