芭蕉のじいさん、旅に出る。


第6話 日光西街道
芭蕉の一行が宿を立つときには、宿の主人をはじめ、女中たちまでが、見送りに出た。それだけ、宿にとっては上客であったようだ。宿の主人が一行の背中が遠くになって、店へと戻りかけた時に、見知った顔がそこにいた。「おや、奈良屋の太七さんじゃないか。」「ご主人、お世話になっております。ところで、あの一行は?」「ああ、江戸の紀伊国屋文左衛門さまのご一行なんだよ。昨日、私のところに泊まっていただいたのですよ。」宿の主人はいかにも自慢そうに、そう言った。下手をしたら、“紀文様、お泊りの宿”と大書して、軒先につるしかねない勢いだった。宿の主人にとっては、俳諧師の芭蕉よりも大金持ちの紀伊国屋文左衛門の方が大人物だったのである。

芭蕉は宿の主人の紀文だけを持ち上げる態度にへそを曲げていた。そして曽良に紀文にも聞こえるように言った。「あと数百年もすれば、お金にものを言わせるお大尽よりも、文化人の私が尊重される時代が来ますよ。あの宿の主人の子孫たちが私を大事にしなかったことを後悔するときがきっと来ますよ。」それに対して、”くすっ“と曽良が笑う。「私としては、数百年後に大事にされるよりも、今を大事にされたいですがね。」この時ばかりは芭蕉はまじめな顔つきで、曽良を諭す。「曽良さん、私たちが後世に残せるものはお金ではありません。人それぞれの生き方なのです。まあ、色々な残し方があるかもしれませんが、私は俳諧を通して、人としての大事な生き様を語っているつもりです。」

奈良屋の太七は宿の主人の話に辟易としながら、紀文一行に、意味ありげな顔を見せた。ただ、その太七が不審に感じたのは、紀文の一行を追う怪しげな二人連れを見つけたことだった。二人は街道の軒先から突然、現れ、芭蕉一行を明らかにつけているように見える。身なりは旅をするやくざ者のようだが、長どすを身に着けていない。何か間の抜けた姿なのだ。「あいつらは何で、紀文をつけているんだ。」太七は彼らを追っていかなければと感じた。それで、宿の主人に言付けを頼んだ。「もうすぐ、私の後から、田丸さまというご浪人さんが来るのですが、私は先に出立しなければならない用事ができましたとお伝えください。」

日光街道を喜沢で折れて、壬生へ続く道は例幣使街道と合流して日光に至る。いわゆる日光西街道である。芭蕉の一行は日光西街道に入ってきたのである。日光街道とは違い脇道である。人の往来も少なくなる。江戸のやくざ者の一人がそれを見て、急ぎ間々田宿に引き返していく。地元のやくざ者たちが助っ人として、待機しているはずであった。太七は喜沢の分かれ道にある茶店に立ち寄って、再び、文を託した。「この追分で壬生への道に進むのなら、いずれ例幣使街道を行くことになる。急ぐこともあるまい。」太七は茶店の老婆に茶を頼んだ。昨日まで、太七は紀文を捜して、夜通しの旅をしてきたのである。こうして紀文一行を指呼に捉えて、ようやく腰を落ち着かせたのである。だが、ゆっくりと茶を飲んでいる太七の前を、先ほどのやくざ者が5〜6人の長どすを腰に差した連中を先導して、日光街道を左に折れていく。「なんだ。」太七は慌てて、茶店に代金を置いて、立ち上がった。

芭蕉一行が喜沢から一里ほど行った田舎道で、後ろからやくざ者の集団が駆け足で迫ってきた。それを最初に気が付いたのは曽良だった。短く舌打ちをして、「師匠、絹さんをお願いします。」と言って立ち止まった。芭蕉は曽良の言葉に頷くと絹を自分の後ろにかばった。かよわい女性を守らなければという気丈さは持っていた。絹は迫りくる集団の多さに芭蕉の影で身を震わせていた。紀文はいつの間にか、街道脇の大きなクヌギの木の後ろに身を隠した。

ハアハアと荒い息をしながら立ち止まると、江戸のやくざ者が言った。「やい、てめい、この間はよくもなめた真似をしてくれたな。今日はこの前のようにはいかねえぞ。こちらには龍神一家の兄さんたちがついているんだ。分かったら、黙って、絹をこちらに渡せ。」曽良は相手の人数を数えた。6人もいる。江戸者を加えたら8人だ。俺一人ならなんとか、切り抜けられるだろうが、こちらには師匠や絹さんがいるし、そのうえ、おまけの紀文までいる。「困ったもんだ。」と小さくつぶやくと、それを聞きつけた江戸者が「後悔しても遅いんだよ。」と吠えた。だが、一向に、襲ってくる気配はない。曽良の落ち着きに不気味さを感じているのである。曽良が言う。「そこの江戸のやくざ。」やくざが言う。「やくざとは何だ。」「名前を知らんのだから、しょうがなかろう。ここはお金でかたをつけよう。お前の親分は幾らあったら、顔が立つんだ。1両か2両なら何とかするが。」江戸のやくざ者の二人が顔を見合わす。「うるせい。」兄貴格の男が声を震えている。弟分は懐に忍ばせてた匕首に手を伸ばしているが、腰が引けている。小声で兄貴分に言う。「兄貴、2両で手を打ちましょうよ。」兄貴分も迷う。だが、「うるせい。俺たちは龍神一家に助っ人を頼んでしまったのだ。もう、後には引けね。」声の震えが後ろに控える龍神一家のやくざたちも伝わる。

「十両だ。びた一文まけられねえ。」兄貴分が声を張り上げる。それに対して、曽良が落ち着いた調子で言う。「2両で何とか、親分を説得しろ。刀でやりあえば、こちらも多少ケガをするかもしれないが、そちらの何人かは必ず死ぬぞ。わしもこれだけの人数を相手にするのだ、手加減はできぬ。」「何を言ってやがる。こちらには戦いなれた龍神一家の衆がついているんだ。」相変わらず、男の声は震えている。「十両だ。十両を出せ。」曽良は仕方ないと戦いの準備に入った。「十両もの大金をわしらが持っているはずがなかろう。仕方がない。相手をしてやる。」と刀に手をかけ、目で芭蕉と絹の様子を確認すると、一歩、足を進めた。やくざ者たちはその威圧感に、一歩足を引く。「俺たちは知っているぞ。お前たちは間々田で豪遊したそうじゃないか。金は持っているはずだ。」そう言うやくざ者の腰は落ち着かない。「あれはわしらの金じゃない。仕方がない戦ってやるからかかってこい。」緊張が双方に走る。と、その時、クヌギの木の後ろに隠れていた紀文が「曽良さん、曽良さん」と声をかけて寄ってきた。そして、江戸のやくざ者の二人に話したのである。「その十両、私が払いましょう。それで、絹さんは自由になるのですね。」

やくざ者たちはあっけにとられる。「もう、2両出せ。」突然、弟分が言う。何を言うんだという風に振り返る兄貴分に、弟分が言う。「兄貴、龍神の皆様へのお礼が必要です。」
“お、なかなかしっかりしているな”と感心したように、兄貴分も言う。「そうだ、あと2両だ。」それに対して、紀文は困った顔をする。「12両も払ったら、私のこれからの旅費が無くなってしまいますよ。」「いいから出せ。」やくざ者たちは腰が引けている割に強硬である。「仕方がない。」曽良は言う。「紀文さんのこれからの旅費は私達が出しますから、12両出してください。」紀文は仕方なく、頷いたが、不審顔である。「お前さんたちにも、2両くらいあるだろう。」曽良は冷たく言う。「私達には遠い奥州の旅が待っているのです。」紀文は金袋をさかさまにして、有り金全部をやくざ者たちに渡した。



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