芭蕉のじいさん、旅に出る。


第4話 栗橋の関
出立を前に芭蕉は、宿の主人に残しておく餞別品を預かっていてほしいと頼んだ。「江戸の桃印という者に手紙を買いたので、その者が荷を取りに来るまでお願したい。」と頼んだのだ。「これらの品はきっと桃印が上方へ戻るときに役にたつだろう。」と芭蕉は思っていた。曽良は食事の前のつかの間の時間に、宿場へ出て、絹のためにいくつかの買い物をしていた。草履と杖と菅傘である。街中を歩くような履物では急ぎ旅には不向きだ。杖は歩くのに楽だし、もしもの時には多少の武器にもなる。さらに菅傘は絹の顔を隠すためである。

食事が終わり、芭蕉一行は宿の人たちに見送られて、日光街道を進み始めた。芭蕉の歩みも昨日に比べて、軽やかだ。絹さんの装いも旅姿になって、これまでの違和感が薄れた。ただ、昨夜、泣きつかれて、今日は無口だ。曽良さんはもともと無口なので、芭蕉だけがなんとなく旅を楽しんで、軽口も言うし、鼻歌交じりなのである。そもそも、若い女性との旅など、これまでになかったことである。

粕壁を抜け、幸手を通り、いよいよ利根川に差し掛かる。ここには関東の三大関所の一つ栗橋の関がある。曽良さんには立派な手形があり、芭蕉にも鯉屋が調達してくれた手形がある。しかし、絹にはない。しかも出女だ。そのころの関所は出女にはうるさい。関所を通る者、全員が手形を持っていなければならないということはないのだが、そのような者にはうるさい詮議が待っている。曽良は絹に自分についてくるようにと言って、関所に入っていった。曽良は自分の手形を見せて、役人に言った。「この娘は江戸の鯉屋の女中だったのだが、昨夜急に間々田の父親が危篤だという知らせを受けて、取るものもとりあえずに江戸を出てきたところだ。その際に私に保証人になって、間々田まで同行してくれと頼まれたものである。身元は確かなので、通してほしい。」この曽良の言葉と手形に、関所役人はうなづく。なぜか、曽良の手形には効力があったようだ。関所の役人は何も言わずに二人を通したのであった。

栗橋の関を出たあたりで、そこから出てくる旅人を胡乱な前付きで見ているに二人のやくざ者がいた。「兄貴、絹のやつ、すでにこの関を通ってしまったんじゃないですか。」もう一人の兄貴格の男が答える。「粕壁にも、幸手にも泊まっていなかった。たぶん、草加に泊まったに違いない。なら、まだ、そこらあたりをうろうろしているはずだ。」

二人は関から出てきた娘に目を止めた。菅傘で顔が見えない。立派な体格の町人姿の男について歩いている。兄貴格がつぶやく。「あいつは違うな。」そして、目を空に向けた時に、弟分が叫んだ。「兄貴、見てくれ、あの俳諧だ。」その目の先で、芭蕉が曽良と絹を慌てて追いかけている姿があった。聞き取れないが「待ってくれ。」とでも言っているようである。

二人は立ち上がり、どっと絹に走り寄った。「このあま、待ちやがれ。足抜けなどしやがって、不逞奴だ。」「さ、江戸に戻るんだ。」それを聞いた絹が青ざめた顔で抗弁する。「足抜けなんかしてません。」やくざ者が怒鳴る。「どうでもいいんだ。江戸に連れて帰るのがおれたちの務めなんだよ。」その時に、一番最後に来た芭蕉が絹とやくざ者の間に入って、絹を守ろうと立ちはだかった。「どきな、爺さん。ケガをするぜ。」やくざ者がすごむ。芭蕉は絹の杖を刀代わりに、やくざ者をはねつけようとした。仮にも、芭蕉は元武士なのである。だが、やくざ者はせせら笑って、芭蕉の杖を長どすでたたき折った。アッという間のことだった。

曽良が異変に気付いて戻ってきたのは、その時だった。無言のまま、やくざ者たちの前に立つと刀を抜いた。やくざ者たちも、曽良の構えに圧倒された。誰もが、この男はできると感じる威圧感を持っていた。それでも、やくざ者たちは空騒ぎをする。「誰でい、てめい、邪魔する気か。こちとら江戸の大親分がついているんだ。余計なことをすると後が怖いぜ。」
曽良は何も言わない。刀で、やくざ者たちの長どすをたたき落とすと、足で、遠くへ蹴り飛ばした。そのうえで、刀を振り上げた。やくざ者たちはあわてた。そして身を翻して、逃げた。「覚えてやがれ。」とでも言っているようであった。曽良は彼らの姿が見えなくなるまで、身構えていたが、やがて、気を緩め、蹴とばした長どすを拾って、川へ投げこみ、やっと芭蕉や絹の方に振り向いて、「大丈夫でしたか。」と笑顔を見せたのである。

「ありがとうございます。」絹が曽良に言った。芭蕉は思う。私が一番に、立ち向かったのだ。あれがなければ、絹はどうなっていたか分からないはずだ。「だが、まあ、仕方がないか。」そこだけ小さな声で聞こえたので、絹は不思議そうに、芭蕉を見た。

曽良は絹に言う。「あの手の男どもは、しつっこい。油断はできないな。」絹は不安そうな顔を、さらに深めた。芭蕉は曽良が追い払ったのだから、これに懲りて、再び襲ってくることはあるまいと高をくくっていた。芭蕉は生来がのんきなのだ。旅に出れば、いろいろなことがある。それを引きずっていては、長旅などできないことも確かなのだ。まして芭蕉は俳人である。刹那刹那の心情の変化こそが大切なのである。

曽良は口には出さないが、あの者たちは、あらゆる手段を使って、再び襲ってくるだろうと思っていた。彼らにもメンツがあり、彼らの親分にも体面というものがあるのである。邪魔が入って、絹を取り戻すことができませんでしたなどと言って通る話ではなかった。暗い気持ちが曽良を憂鬱にさせていた。あの場は金か何かで、話をつけるべきだったのではないかと悔やむのである。だが、芭蕉を見て、「我々には金もないか。」と現実に戻っていくのだった。

「船が来たようだ。」と茶屋の主人が客たちに言った。川の向こう側から渡し船が近づいてくる。利根川の渡しである。芭蕉が乗り、絹が乗り、曽良が乗って、船頭が「船がでるよ〜。」と叫んだとき、土手から転がるように、駆けてくる男がいた。芭蕉は見たことがある男だと思った。男は丸顔の男だった。「なんだ。紀文じゃないか。」芭蕉は驚いたような声を出した。ゼイゼイと息を切らしながら、紀文が船に乗り込んできた。「芭蕉の師匠、やっと間に合いましたよ。もっと前にご一緒できると持っていたんですが、出てくるときにいろいろありましてね。」芭蕉は怪訝そうに言う。「ご一緒って、なんだい。」「だって、師匠は日光へも行くんでしょう。それでしたら、ご一緒させていただきたいと思いましてね。」何か不満そうな芭蕉の顔を見て、紀文は畳みかける。「そもそも、芭蕉庵なんていうちゃちな建物を高額で買ってあげたのは私ですよ。この旅の旅費は私が出してあげたようなものなんですから、恩を感じてもらわないと。」芭蕉はしぶしぶ紀文との同行を認めながら、曽良に言ったものだ。「深川で梅乃にも同じことを言われたんですよ。恩も片方だけ、一人だけにしてもらいたいものですね。」


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