芭蕉のじいさん、旅に出る。


第3話 草加
芭蕉は餞別品の多さに閉口していた。歩みはどうしても遅くなるし、ずいぶんと旅慣れているつもりでも、曽良さんの闊達な足取りとは比べようもないのである。「荷物が多いせいだ。」と腹の中で思っていても口には出せないのである。だが町姿のお絹さんにも置いていかれそうになると、これはまずいと早足になるのだが、それがかえって疲れを呼ぶのである。旅は始まったばかりだ。これではこの先が思いやられる。「曽良さんや。本当は、今日の予定は草壁まで行きたかったのだけれど、次の草加宿で、今日の旅は終わりにしましょう。この荷の多さでは、とても奥州まで持ちそうにないし、それどころか、日光さえたどりつきそうにもないですよ。」

曽良も、この師匠の提案に同意した。旅は長いし、師匠の歩き方を見れば、餞別品もどこかで整理しなければならないと思っていた。曽良には、それよりも、師匠についてきた絹という女のことが気になった。何かわけがありそうなのである。師匠はあの梅乃という芸者の言いなりだが、曽良は旅の初手から、煩わしいことに巻き込まれたくないと思っていた。

「それで、絹さんはどこまで行きなさるんだね。」曽良は芭蕉が息を切らして、道端に座り込んでいる隙に、そっと絹に聞いてみた。「間々田です。」「間々田と言ったら、利根川を渡った先だね。そこに何があるんだい。」「間々田には私の実家があるのです。今も、間々田にはお父さんとお母さんがいるはずです。」「ずいぶんとあっていないのかね。」「ええ、10年もあっていません。」「江戸で、何をしていたのだね。」「梅乃さんと同じ、芸者です。でも私、家が貧しくて、売られてきたのです。」「もしかして、足抜けしてきたんじゃないだろうね。」「違います。」絹はここだけは譲れないというように否定する。どうやら楼主ともめている様子がうかがえる。曽良は師匠の芭蕉を振り返る。芭蕉は能天気に空を見ている。絹は力説する。「私、私、10年奉公の約束で、江戸に来たんです。でも楼主さんは貸した金の利息があるから、年季明けはしていないというんです。そんなはずはないのです。」絹は自分で話しながら、涙を浮かべた。芭蕉がこの時、絹の涙に気が付いた。きっと、曽良さんが女の道連れは困るくらいのことを言ったのかもしれないと勘ぐった。だから、「曽良さん、絹さんと一緒にいきますよ。でかけますよ。」と先ほどまでとは違う勢いで、歩き始めたのであった。曽良はひそかに恐れた。このような時には楼主が追手を差し向けることが多い。ともかく、草加宿まで急ごう。幸い、師匠も元気を取り戻した。

草加宿は千住と越谷の間の湿地帯や沼地を埋め立てて、人工的に造られた町である。昔の奥州への道はこの湿地帯を避けて、大きく迂回するルートを通っていた。天正11年に、大川調所という人が徳川氏の支援を受けて、直線道路を造ったのだ。草加という地名も、徳川秀忠が「草を持って、沼地を埋めたのは草の功だ。これ以後、この地を草加と名付けよ。」と言ったからだと言われている。当時としては新開地である。その後、江戸に近い宿場ということもあり、近隣に田んぼが開け、肥沃で米の良くできる土地となり、宇都宮や古河と言った城下町の宿場を除けば、草加は日光街道の中でも千住や幸手宿と肩を並べるほどに栄えることになるのである。ただ、芭蕉が通過したころの草加宿は宿の数も5〜6件ほどで、そのほとんどが木賃宿ではなかったかと思われる。

芭蕉一行も笹屋という木賃宿に泊まることになった。木賃宿には布団などの設備はない自前の紙子という夜具で寝ることになる。旅人の必需品だ。ところによっては食事も自炊だ。
ただ芭蕉たちの泊まった草加宿の宿はそのようことはなく、宿の主人が宿についた一向に、笑顔で挨拶にきて、ここの名物だと言って、茶と草加せんべいを出した。元々、湿地帯であった草加は稲作に適した土地だった。コメの豊かな実りをもたらし、精米の際に割れた米片が捨てられていた。旅の僧がこの様子を見ていた。そしておせんという老婆がやっている茶店で、「もったいない。」とつぶやいたのが最初だという。不思議に思ったおせんがそのわけを聞くと、その旅僧は、米片を蒸して、つぶして、塩を加えて、丸くして、香ばしく焼き上げれば、おいしいおやつになると教えてくれたのである。早速、おせんは教えられたとおりにして、売り出したところが大当たりとなった。以来、そのお菓子はおせんべいと言われて、草加の名物になったという。現在の草加せんべいは醤油を塗っているものが多いが、それは明治になってからと言われている。

木賃宿に入った芭蕉一行はまずはおせんべいをぼりぼりとかじり、お茶を飲んで、のどの渇きをいやすと、持ってきた荷物を畳の上にぶちまけた。その様子はわびさびを基とする俳人のようにはとても見えないのだが、芭蕉は千住からの道々で苦しんだ分、扱いは乱暴だった。まずしなければならに事は旅に持っていくものと置いていくものとに分けることだ。広げて見ると、確かに要らないものが多すぎた。それに必要なものでも、あの人もくれ、この人もくれという風に、重複している荷物も多かったのである。

旅に必要なものは衣類としては芭蕉がかぶってきた頭巾と曽良さんが頭にかぶってきた三尺手拭がある。それに股引、脚半、足袋、甲掛、下帯、手拭、針、糸、などがある。芭蕉は俳諧師だから、何はなくても、矢立、道中記、心覚えの手帳、小硯箱などといった書き物は必需品だ。しかし、1種類でよい。一番立派なものよりも小さくて長持ちしそうなものを選んだ。お金などの大切なものを入れる財布、巾着、胴巻き。それに忘れてはならないものは薬だ。薬袋の中に丸薬、煎薬、血ドメ薬、風薬と、そして熊胆があれば最高だ。幸いなことに誰かが熊胆を入れてくれていた。今ではそれが誰であるかは分からないので礼を言うすべもない。そのほかには扇子、鼻紙、耳かき。そろばんは曽良さんが自分の小折の中にいれた。髪結いなどの化粧道具。芭蕉の旅には身支度が重要なのである。小汚いままに地方の弟子たちの家に入っていくわけにはいかない。そして、紙子、合羽、弁当箱と言ったものは旅人には絶対欠かせないものだ。

芭蕉が最後に迷ったのは多くの人が持って行けと勧めたお守りのたぐいだ。大きなものもあれば、小さなものもある。大きなものほど立派で、ご利益は大きそうだが、旅には不向きだ。迷った末に、芭蕉が選んだ物は、石戸の太一が贈ってくれた小さな招き猫の焼き物だった。太一とお銀が芭蕉庵にきて、きっと役立つときがあると言って置いていったもので、芭蕉にとっても、江戸の大切な思い出だった。

食事を済ませ、明日の旅に備えて、早く寝なければならないのだが、芭蕉の一行にはまだ済ませなければならに事があった。絹の身の上の話である。絹は楼主の断りもなく、江戸を出ていた。年季奉公の10年は終わったかもしれないが、それでも楼主に無断で出てきたからには足抜けと同じだ。楼主の怒りは収まらないはずである。絹が実家のある間々田を目指していくことは楼主には手に取るようにわかる。「なぜ、身売りなんかしたんだい。」曽良は突然訪ねた。「あの年、間々田は近くを流れる思川が氾濫して、大洪水になったのです。私たち親子は命からがらお稲荷さんのあるところまで逃げて、助かったんですが、実りを迎えていた田んぼも、家も川に流されて・・・。」そこで、絹は「わ〜。」と泣き出した。幼い弟がその時に死んだというのだ。曽良さんは女の涙を見ても、感情的になることはなかったが、芭蕉は違った。もらい涙で、「うん、うん」と目は潤ませていた。曽良は冷静に言う。「間々田の実家も楼主の手が回っているかもしれないが、とりあえず、実家まで送っていくしかないだろう。」芭蕉はまだ、「うん、うん」と絹と一緒に泣いていた。

その夜、草加宿の暗い道を旅装束のやくざ者が二人、急ぎ足で通りすぎていた。「絹は芭蕉という俳諧と一緒に、千住を出たというから、きっと幸手か粕壁に泊まる。そこまで急ごう。何といっても女の足だ。すぐに追いつくだろう。」



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