享徳の乱19


里見水軍と北条水軍の戦い
三浦半島と房総の安房は浦賀水道をはさんで極めて近い。水軍と言うと日本では瀬戸内海を有する西国で発展し、一方、関東は騎馬を中心とする陸戦が得意というイメージがあるのだが、海に面し、良港をもつ伊豆、三浦半島、さらには房総の安房では水軍が発達した。

北条早雲が伊豆に攻め込んだ時、堀越公方の茶々丸は伊豆大島に逃げたのであるが、そこにも早雲が伊豆水軍を集めて、追い詰めていく。そこで伊豆大島をめぐって、三浦水軍と覇権を争うことになったという。その時には大量の船で向かった伊豆水軍の勝利となったのだが、それまでは三浦水軍もそこまで勢力圏を広げていた実力を持っていた証である。

三浦氏は鎌倉幕府が滅亡した時に、新田義貞に従い、鎌倉に攻め込み、さらに、南北朝時代には足利氏に属し、鎌倉公方の下で三浦介を称していた。三浦時高の時代である。永享の乱が起こる。時高は関東管領足利持氏が将軍義教に背くと迷うことなく、義教の命令に従い、鎌倉の持氏を攻めるのである。そして、享徳の乱が起こると扇谷上杉家を支える重要な柱の一つとなる。子のなかった時高は扇谷上杉家から持朝の孫を養子に迎え、義尚(後の道寸)と名乗らせて家督を継がせる。だが、よくある話である。その後で、時高に実子の高教が生まれる。お決まりの相続をめぐる内紛が発生する。時高が道寸を退けるのである。これに対して相模の中央岡崎城を拠点とした道寸は反撃に転じる。小田原の大森氏の支援を受けながら、三浦半島に攻め込むのである。時高と高教父子は三浦半島の最南端、三崎の新井城で抗戦するが、明応3年(1494年)時高の死で、三浦嫡流家の幕は閉じるのである。こうして、三浦道寸の三浦氏は相模の中央部から三浦半島にかけての広大な領地を有する強力な勢力となったのである。しかも扇谷上杉家の血を引く家系である。

小田原の大森氏を追い出し、相模進出を図る北条氏と三浦氏が衝突するのは必然であった。当初は平塚城などで、北条の進出に対抗していた三浦氏であったが、永正9年岡崎城が奪われると、三浦半島が主戦場となった。さらに半島の入り口、鎌倉の住吉城が破られると三浦氏は半島南端の新井城を唯一の頼りに徹底抗戦をしたのである。その間、当時としては珍しいほどの3年間という長さである。時は群雄割拠する戦国の世である。背後から北条氏の領地を窺う勢力があっても良いはずである。三浦道寸にすれば、それは扇谷上杉家の朝興であったはずだった。だが、朝興は相模野の1戦で北条軍に敗れると、以来、三浦氏支援に動くことはなくなった。代わって、江戸城の太田氏が動くのだが、北条の大軍に効果的なダメージを与えることは出来なかった。当初は水軍の力で支えていた。3年間も抵抗できたのは水軍があったからである。だが、やがて、新井城は兵糧も武器も尽き果てて、道寸は討ち死にし、三浦氏は滅亡したのであった。

三浦氏が北条氏によって滅ぼされ、実質的に三浦水軍が消滅すると、江戸湾は安房の里見水軍の天下となった。里見氏は安房水軍の拠点として、海造城、佐貫城、岡本城などを拠点に、房総半島の西側を上総、下総へと進撃していく。水軍は単に水上の軍隊を持っているということではない。その機動性や武器、兵糧、兵士の搬送など、他を圧倒する機動性を持っていたのである。ただ、里見軍も水軍が活躍できる江戸湾の北部で進撃は止まる。それ以上は陸戦の戦となるからである。そして、北条氏も元三浦水軍の兵士らを呼び集め、新たに北条水軍を作り上げて、里見水軍に対抗させるのである。

里見水軍と北条水軍との海戦はこのような中で、行われた。海戦の武器は陸戦とは大きく変わる。弓矢は同じように有力な武器だが、主に遠矢なので、実質的な効果は薄い。それに代わるのが、船をぶつけ合って、相手の船を破壊する。相手の兵士を海に落とす。熊手とか、突棒とか、叉子股(サスマタ)などで戦ったのである。

大永5年(1525年)、北条氏綱が岩槻城攻略の余勢をかって、下総に進出してくると、里見実尭は下総に軍を派遣するとともに、水軍に命じて、三浦半島の北条軍を攻撃するように命じた。陽動作戦である。里見水軍は三崎にいた北条方の船を多数破壊し、そのまま、城ケ島に陣取って、北条軍をけん制し、北条軍の一部を三浦半島へとそぐことに成功する。ただ、この当時の水軍は風に強い影響を受ける。帯陣しているあいだに、西風が強まり、里見水軍は安房に引き上げざるを得なくなったのである。

大永6年(1526年)、安房、上総の兵を乗せた里見水軍は三崎を再び攻撃する。里見水軍には大力という力自慢の水兵たちが存在する。大力たちは、大石や材木などを敵船めがけて投げ込み、敵に致命的なダメージを与えてしまうという集団である。この戦いで安房水軍は大力たちを模した人形を船べりに並べて敵船に近づく、敵も大力の怖さを知っているので、近づく安房水軍のうちの人形ばかりに目を奪われる。もっぱら人形めがけて矢をいるなど、攻撃が乱れる。水夫も人形を生きている人のように動かし、大声で、この人形が人かの如く吠え続ける。頃合いを見計らった里見方の大将が船底に隠れていた大力たちに出陣を命じる。彼らはここぞとばかりに船上に駆け上がり、次々に、大石や材木を敵船に放り投げて、敵船を粉砕したのである。こうして敵兵は溺れる者が続出したという。里見軍は逃げる北条船を追って、鎌倉まで進撃し、激戦を繰り広げる。戦火は鶴岡八幡宮にまで及んだという。

弘治2年(1556年)第一次国府台合戦の後である。北条軍は椎津城を攻略し、里見氏は上総北部から一時的に撤退することになった。だが、北条軍が上総から撤退すると、里見軍は直ちに反撃に出る。そして、椎津城を奪回したのであった。これに対して、北条氏側は北条の大軍が再び、上総に襲撃するとの噂をまき散らしたのである。これに対して、里見実尭・義弘父子は軍船数十隻で、三浦半島に押し渡り、敵船と激戦を繰り広げる。北条氏も氏康・氏政父子が軍勢を連れて、応援に駆け付け、城ケ島に陣取る。海戦は北条方の大敗となり、形勢不利となった氏康・氏政父子は小舟で、半島に渡り、陸路を逃げる。それを追う里見軍は三崎一帯を占領することになったのである。この合戦では双方合わせて、700余人の死傷者が出たという。海に溺れた者も多かったのではないかと思える。里見氏は三崎の新井城を修復し、ここに常時70名ほどの守備兵を置き、三浦半島南部を押えることになるのである。

永禄10年(1567年)第2次国府台合戦の時である。里見義弘はこの戦いに三浦の水兵たちも動員した。当然三浦の守備は手薄になる。そこを北条方に攻め込まれる。三浦四十余郷が奪われる危機に陥ったのである。この危機に里見水軍は再び、海を渡り、三浦半島の奪われた地を回復に向かうのである。


享徳の乱20


天正の内紛と里見氏のその後 
里見氏はその発展段階で、拠点を白浜城、稲村城、さらに、上総の久留里城へと拠点をすすめて来た。だが、国府台合戦の敗退で、退潮をよぎなくされ、里見義尭が久留里城に、そして、佐貫城に子(庶長子と言われている。)の里見義弘が守り、安房の沿岸部を北条水軍から防衛するために、義尭の孫の義頼に、岡本城を築かせて守らせることになった。この時、それまで里見氏に属していた池和田、椎津、久保田の各城は攻略され、土気城の酒井氏や、真理谷城の武田氏も北条方に移っていた。こうした情勢に北条氏の攻撃は止まることはない。特に、北条氏の水軍を使った安房東海岸へのかく乱戦術は里見氏への住民の信頼を大きく削ぐことになったのである。

里見義頼は豊浦の岩山に穴をうがち、城を築く。さらに須崎、滝山、明金に見張り台を置き、敵の軍船が見えた時には、合図の太鼓を打ち鳴らし、百姓、町人などに自分の財産を持って山へ逃げるようにと指示したとある。そうした上で、義頼の軍勢が城より打ち出し、上陸してきた敵を追い払うという作戦をとったのである。さらに義頼率いる里見水軍は北条綱成率いる北条水軍に反撃する。菊名浦で戦いでは敵に大打撃を与えたのである

天正2年(1574年)里見氏の支柱、里見義尭が久留里城で死去する。68才であった。そして、その死を待っていたかのように、北条氏の攻勢が強まる。北条氏にとって、天正年間に入ると、西の武田氏からも、北の上杉氏からの関東への影響は急速になくなっていた。彼らの関心はもっぱら西から攻め上がる織田信長の存在だった。逆に彼らは北条氏の支援を求めていたのである。背後の不安を無くした北条軍が本格的な侵攻を始めたのである。しかも、北条氏政にとっては、三船山の戦の屈辱がある。北条氏の総力を挙げて、里見退治に向かったのである。そして、その圧力に耐えられなくなった義弘はついに、北条氏との和、房相一和を結ぶのである。実質的に北条氏への屈服であり、北条氏の勢力圏の中に組み込まれることになったのである。そして、房相一和から1年後の天正6年(1578年)に、義弘は久留里城で死去することになる。48歳であった。そして義弘の死で、里見氏の中心はこれまでの久留里城から、義頼が本拠とする岡本城に移る。北への戦のなくなった里見氏が安房に戻っていくことは自然の流れであった。

義弘は死の枕で、とんでもない遺言を残すことになる。義弘と義頼との間には親子の血のつながりはない。戦時ならば、間違いなく、義弘は里見氏のすべてを義頼に託したであろうが、今は曲がりなりにも平時である。たまたま、義弘に、自分の子、梅王丸が生まれていた。しかも、義弘が古河公方足利晴氏の娘を妻にして、生まれた子である。義弘の希望は梅王丸に里見氏を継がせることであった。いわゆる義頼の廃嫡である。この話に、里見氏は動揺する。義頼の怒りはもとより、安房衆も怒りを隠さない。それを察知した義弘が前述のとんでもない遺言を残すのである。里見氏は梅王丸に相続させるが、安房一国は頼義に任せると言うものであった。事実上、里見氏の支配する安房と上総の分裂と言う事態になったのである。

梅王丸を担ぐ義弘の側近や上総の重臣、正木憲時、加藤信景などは義弘の死後、直ちに梅王丸に里見氏の家督を継がせ、義弘の葬儀を挙行する。一方、反発する義頼や安房衆は、その葬儀も出ない。こうして、対立は一触即発の状況で、2年の時が過ぎる。異常事態は北条氏の耳にも入る。北条氏も里見氏の内紛は困る。西からは織田信長の足音が聞こえ始めていたのである。里見義頼は本拠を岡本城から、さらに安房南部の館山に移して、館山城を築くと、北条氏政と密約を交わす。北条氏政にとっても、懸念される長信長との戦いには強力な里見氏の力がいる。それにはまだ子供の梅王丸よりも信頼できる義頼に恩を売っておく方が良い。

天正8年(1580年)4月、突如、義頼は奸臣、正木憲時討伐を名目に軍を起こす。梅王丸側は北条氏に支援を求めるが、北条氏は動かない。たちまち、正木憲時を小田喜城に、梅王丸と加藤信景を佐貫城に追い、城を包囲したのである。正木軍は一時、勝浦城を攻略するなどの反撃を試みるのだが、佐貫城で加藤信景が梅王丸の助命を条件に降伏すると、小田喜城も持たなくなった。正木憲時は城内で、家臣の裏切りに会い、殺されて、天正の里見氏の内紛は終わったのである。

館山城が完成し、里見氏の居城となるのは義頼の死去後の天正18年(1590年)になってからである。里見義康の代である。この天正18年は豊臣秀吉による小田原征伐の年である。その年の8月には小田原城は開城し、北条氏政は切腹して果てることになる。豊臣軍に降伏した里見氏もただでは済まない。里見氏の領地のうち、上総は新しく関東に移封された徳川家康のものとなり、里見氏は安房一国の大名となったのである。ただ、この時の里見氏の石高は9万2千石である。10万石には満たないが江戸湾の交通の要衝を押える位置にあることを考えれば、関東でも大きな大名の格を有していたと思われる。

館山城は里見氏のこれまでの城とは違う。これまでの城が戦いの城であるのに対して、この城は平和の城である。規模は江戸城にははるかにおよばないものの、同じように安房の人たちに里見氏の権威を示す、美しい城づくりが求められたのである。目の前には三浦半島が、遠く小田原や伊豆大島も見ることができた。平時には再び、海路を江戸へと荷を運ぶ船が行き来するようになるのである。そして、館山城の城下も10万石の格に合わせるように、人々が集まりだし、賑わいを増していくのであった。

頼康の時代の里見氏は実質的に、徳川傘下の大名として、家康に従って、行動する。関ヶ原の戦では、結城秀康の指揮下で、宇都宮城を防備し、上杉軍の南下に備える部隊として配置された。そして、その功もあって、里見氏は常陸の鹿島に新たに3万石の領地を得ることになる。都合12万石を超える大名となったのである。

徳川氏が江戸に幕府を開き、将軍の座が家康から秀忠に代わる。家康は駿河に移ると、2頭政治の弊害が生まれる。長く家康に仕えていた大名たちは、まずは家康を立て、次に秀忠という順番をわきまえているのだが、それを知らぬ大名の中には、次代の主、秀忠に接近する大名も現れる。秀忠の守役である大久保忠隣は別として、伊達政宗と里見義康の動きが目立ったのである。里見義康の嫡男の名を、秀忠から一字もらい、忠義としたことでも分かる通りの接近であった。さらに、守役大久保忠隣とも関係を深め、姻戚関係を持つ間柄に進展させるのである。

これは豊臣政権でも太閤秀吉と関白秀次の間で、起こったことなのである。奥川政権でも豊臣秀頼に対する処置をめぐって、秀忠と家康、さらに側近たちの間で、確執が生まれるのである。そして、そのような中で、大久保長安事件が起こる。その主犯格である大久保忠隣の小田原藩が改易されたのは当然としても、彼らに接近し過ぎた大名たちに悲劇が生まれた。伊達藩は改易こそ免れたものの、江戸で、いわゆる仙台堀造りなどの過酷な使役が命じられることになった。最悪であったのは安房藩で、この事件に連座する形で、里見氏は改易されることになったのである。

さて、この時代、改易をするにしても、下手をすれば、大騒動になりかねない。例えば、里見忠義が安房にいて、大上段に藩の断絶を命じれば、まだまだ、戦国の血を残している大名である。藩を上げて、抵抗したかもしれない。最終的には幕府は勝利したかもしれないが、下手をすれば時間がかかり、関東諸将を動員すれば、それなりの恩賞も与えなければならない。だから、この時代の改易の多くはだまし討ちである。福島正則も江戸に来たところで城の修復などの罪状を問うたのである。本多正純も山形の最上氏の改易を伝える上使として、派遣された時を狙って、改易が伝えられたのである。大久保忠隣も半ばだまし討ちである。京都へ行くことを命じられて、そこで改易を告げられるのである。里見忠義の場合もだまし討ちである。里見氏は安房1国を没収されたが、鹿島3万石は残されたと告げられる。そして忠義には鹿島3万石の代替地として、伯耆倉吉で3万石を与えるとされていた。だが、倉吉についた忠義には、その地の代官から4千石の地しか与えられなかった。実際は配流であったのである。だから、池田光政の因幡・伯耆移封によって、その地も召し上げられ、忠義は病没し、里見氏は滅びることになったのである。


享徳の乱21


戦国里見氏の誕生と悲劇。
里見氏を描いていくと、妙に重いものを感じる。そこには他の関東の戦国大名とは違う血生ぐささを感じるからである。裏切りとか、謀略がすべての時代を通して、起こっているのである。確かに、そうでもしなければ、房総の南端の一勢力に過ぎない里見氏が強大な北条氏を相手に戦い抜くことは出来なかったかもしれない。しかも、一敗地にまみれても、なおも果敢に戦いを挑み続ける姿は、千葉県民ならずとも、判官びいきの日本人の胸を打つのである。

だが、それにしても里見氏に血の匂いが付きまとうのはなぜだろう。それは里見氏は征服者であったからではないだろうか。ヨーロッパにまで侵攻したモンゴル帝国も、中国をおさめた異民族の政権も、征服者はどこも血なまぐさい。殺戮を平気で行う。地元の尾張での統一戦ではあれほどに寛容であった織田信長も、征服者として攻め入った先では、征服者としての残忍さが露わになる。一向門徒を殺戮した越前や長嶋の戦を例に挙げるまでもないであろう。

里見氏は八幡太郎源義家の家系で、新田義俊が榛名山の麓の里見郷に土着したことに始まったとされる。鎌倉末期には、新田義貞に従い、南北朝時代を戦うが、義貞の没落とともに、里見氏も没落することになる。足利氏の時代には、鎌倉公方の側近、結城氏の下にあったが、嘉吉元年(1441年)鎌倉公方足利持氏の遺児、春王丸と安王丸を押し立てて、結城氏が幕府に対して起こした反乱、いわゆる結城合戦で、里見家基は反乱軍に加わるのであるが、結城軍は破れ、家基も戦死するのであった。

しかし、京都で嘉吉の乱が起こり、将軍義教が暗殺される。そして、関東で、再び鎌倉公方が復活し、持氏の子、成氏が鎌倉公方になる。当然、成氏は自分の父や兄弟を最後まで支えた結城氏や里見氏でそばを固めるようになる。里見家基の子、家実も成氏の側近の一人となったのである。

さらに、時を経て、公方と関東管領の上杉氏との対立がさらに深まる。享徳三年(1454年)12月27日、成氏は管領の上杉憲忠以下、主従22名を西御門邸に招き、殺害する。享徳の乱の始まりである。この時、里見家実は公方の命を奉じ、結城勢とともに、西御門邸に切り込み、上杉主従を全員、切り殺してしまったのである。その後も、里見家実は古河に拠点を移した足利成氏の下で、戦場に命をかけるのである。

里見家実が進出する前の安房の国の情勢はどうであったのであろう。当時の安房の主要勢力は鎌倉時代からの豪族、勝山の本拠を置く安西氏、館山に館を構える金余氏、そして、鴨川の東条氏と丸山の丸氏の四家であった。そして、この上に守護の上杉家が家臣を派遣して統治していたのである。享徳の乱が起こり、西関東を基盤とする上杉家の力が安房から消えかけていた。戦国の下剋上の嵐は安房にまで広がる。嘉吉元年(1441年)、まず、館山の金余景貞が家臣の山下定兼に殺されるという事件が起こる。これに対して、丸信頼と安西景春が連合して、定兼を討ち果たすのであるが、金余氏の領土の分捕りあいもあったのであろう、丸信頼と安西景春との間で、戦が始まる。この戦いは東条氏を味方にした安西景春が勝利することになる。

このような情勢の中で、古河公方の命令で、安房に乗り込んできたのが里見家実だったのである。白浜に城をかまえた家実の下に、主家を奪われた丸氏や金余氏の家臣たちが集まる。彼らは口々に、安西氏と東条氏の非と彼らへの復讐を訴えたのである。家実には彼らを抑え、安西氏と東条氏を緩やかに従わせる方法もあったはずである。だが、彼は血の道を選んだのである。

丸、金余の旧臣たちを糾合した家実は征服者として、安西氏と東条氏に対して、血なまぐさい復讐戦を展開するのである。まず、安西氏を倒し、文安2年(1445年)には東条常政の籠る金山城を攻め落とし、安房一国の制圧に成功するのであった。さらに、東条氏を支援したとして、上総の大多喜城も攻撃する。大多喜城の主はこののち、里見氏の重臣として支えることになる正木氏である。文安三年(1446年)里見家実は正木氏を降伏させ、安房ばかりでなく、上総への進出の足掛かりをわずか数年で、達成するのである。

下剋上で出発した安房統一は、為政者に下剋上を恐れさせる。人を裏切ることを知っている者は、人に裏切られることを恐れる。こうして、里見氏の歴史は血塗られたものになる。里見義豊は叔父や家臣を惨殺し、それが里見義尭(ヨシタカ)や正木時茂の反乱に繋がり、犬掛の戦で死んだ義豊の首が小田原に送られたと言うようなおどろおどろしい表現となって、後世に伝えられるのである。義尭は上総武田氏の内紛では自分の安房制圧を支援した武田信隆を裏切り、第一次国府台合戦では小弓公方を裏切って、小弓公方、足利義明をはじめとする一族の首が北条氏の手により古河公方、晴氏の下に送られるという悲劇を生み出すのである。

裏切りは巨大な北条氏に立ち向かう孤高の里見氏の宿命かもしれないが、里見氏は自分に従う多くの家臣たちの裏切りに合う。だから、逆に、裏切りは絶対に許さむという空気が里見氏の中にある。三船山の合戦では、第2次国府台合戦でともに戦った太田氏の部隊を徹底的に惨殺するのである。戦いの中でしか、その存在を表せなかった先祖の血が、そうさせたのかもしれなかった。


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