享徳の乱16


国府台
私はある晴れた日曜日、千葉県市川市にある国府台を歩いていた。目の前を穏やかに江戸川が流れ、岸辺には波が泡立っていた。対岸の小岩側から見ると、まるで国府台は島のように見える。現在でもそのように見えるのだから、国府台に下総の国の国府が置かれていた頃はなおさらである。往時、このあたり一面は湿地帯であったのだ。一旦、大雨でも降れば、あたり一面水の中に沈んでしまったであろう。そして、唯一、その難から逃れられたのが、この台地であった。しかもこの台地は下総の国のほぼ真ん中にある。往時の下総の国は現在の千葉県の北部から、茨城県の西部、埼玉県や東京都の隅田川以東という広大な地を占めていた。古代東海道は市川の砂州の上を通っていたとされ、その砂州からいくつかの橋がかけられて,国府のあった国府台に繋がっていたという。国府台はコウノダイと読む。古くは日本武尊の皇子が東征のおり、川を渡ろうとして難儀をしていた時に、数羽のコウノトリが舞い降り、川の浅瀬を教えてくれたという故事に由来するという。もちろん、伝説的な日本武尊の時代には国府は存在していないので、真の由来はこの台地に多くのコウノトリが住みついていたということから、コクフダイではなく、コウノダイと呼ばれるようになったものと思われる。

現在の国府台には学校など多くの施設が誘致されているのだが、その北端部に里見公園がある。私の個人的な見解では、「なぜ、国府台公園ではなく里見公園なのか。」と言うものだった。里見という名称が安房の里見氏に由来することは想像できる。だが里見氏が国府台を舞台に戦をしたのは、せいぜい2回だ。本格的な戦いと言うのは第2次国府台合戦だけである。さらに言えば、国府台を舞台にした歴史上の出来事は幾らでもある。平安期からここに国府が置かれた時期は長い。ここは源頼朝が軍勢を集めて、鎌倉に向かった地である。大田道灌が国府台城を造ったことでも有名な地だ。だが、源頼朝公園や大田道灌公園にならなかった所以は里見氏が千葉県人の誇りだからである。山梨県人が武田信玄を、茨城県民が水戸光圀を誇りとするように、千葉県民は里見氏を誇りとしているのである。それは南総里見八犬伝の影響もあるだろう。源義経に通じるその悲劇的なヒーローの姿が県民の心をゆさぶるのかもしれない。里見公園には、この戦いで戦死した里見弘次と末娘との悲しさを伝える夜泣き石が今も残る。

そもそも鎌倉公方の側近であった里見氏が安房の国に根を下ろしたのは、長尾景春の乱で上杉方が混乱している最中、足利成氏の命令により里見義実が安房統一に向かったことに始まる。安房白浜に白浜城を築き、ここを拠点に安房平定の活動を始める。安房の国の守護は上杉氏であったので、上杉氏の家臣たちと戦う一方、鎌倉府の御料地もあり、そこを摂取することで力を得たのである。里見氏が安房一国を統一したのは、義実の嫡子、里見義通の代で、永正5年(1508年)ころと言われる。同じころ、上総の国には武田信長が派遣され、真里谷城(木更津市)を拠点として、上総の統治を始めていた。つまり、里見氏も武田氏も、後北条氏と同じく、土着勢力から台頭してきたのでなく、外来勢力として発展したのである。

白浜城に入った里見義実は地域の平定に努めるとともに、享徳の乱では上総の武田信長とともに、古河公方に従い各地を転戦している。永正5年(1508年)の明応大地震が起こった時には、安房の中心的な神社である鶴谷八幡宮の修復を行い、その棟札には大檀那副師源義通と書き、古河公方の副師として、関東支配を支えることを誓っているのである。
義通とその子、義豊の時代に、里見氏は白浜城から内陸の稲村城に拠点を移す。里見氏は安房を拠点に、上総へ、さらに北へと勢力の拡大を目指し始めるのである。

義豊はまず里見氏の内部固めを行うことを決断する。何事にも自分の命令に異を唱える一派の一掃である。義豊は叔父の里見実尭(サネタカ)と安房の有力者正木通綱(ミチツナ)を稲村城内で、惨殺してしまうのである。この里見氏の内紛を、江戸城を攻略し、武蔵進出を本格化させていた北条氏綱が見逃すはずがない。北条氏には風魔衆と呼ばれる卓越した情報集団がある。上総に逃れてきた実尭の子、義尭(ヨシタカ)を上総の武田信隆を通じて支援し、三浦半島の山本水軍に命じて、安房を攻撃し、妙本寺附近でかく乱戦も展開するのである。さらに造海城に籠った義尭に援軍を付けて、安房に攻め込ませる。この内乱は正木通綱の子、時茂が反撃の狼煙をあげるにおよんで、ついに義豊軍は後退していく。これを里見氏の天文の乱と言う。戦いは圧倒的な北条氏の支援を受けた義尭の勝利となる。義豊は上総の武田信清の元に逃れ、義豊側の最後の拠点一色氏の滝田城が陥落する。さらに再起を図って、安房に侵攻した義豊も安房犬掛の激戦で敗れ、里見氏の実権は庶流の里見義尭の手に渡るのである。この安房里見義豊の嫡流家の悲運をモデルにしたのが、江戸期の名作、滝沢馬琴の南総里見八犬伝と言われる。義豊が死んだ地が犬掛であったことも、八犬伝を想起させるのである。

里見氏の天文の乱と時を同じくして、あるいはそれに誘発される形で、上総の武田氏も内部分裂が起こる。そもそも上総と言う国は、安房と違い、東西に細長い国で、比較的平地である。そして中央に小高い山が連なり、国を東西に分断しているのである。さらに言えば、安房の国が他国と厳しい山々や海に隔てられているのとは違い、北の下総との境は川以外になにもないのである。いわば、柔らかい下腹をさらけ出しているようなものなのである。だから、上総の西側、江戸湾に面するあたりは、その頃に武蔵に進出してきた北条氏の影響を強く受けることになる。一方、上総の東側、太平洋に面する側は、これまでの歴史的な権威を重んじる考えが根強く残る。この地を治めていたのが、里見氏と同時期に古河公方から派遣された武田氏である。武田氏の元には、古河公方足利高基と争う弟の足利義明が逃げ込んできた。そして、足利義明は武田氏の庇護の下に、小弓城を拠点に、勢力拡大を図るのである。以後、義明は小弓公方と呼ばれる。小弓公方が時を得たのは、当時の下総の状況が、太田道灌軍の攻勢で、千葉氏が衰退していったことである。しかし、太田道灌の思惑とは異なり、本来、下総を押えるはずであった武蔵千葉氏は戦いが終わるとともに、さっさと武蔵の国戻ってしまったのである。つまり、下総の国は空白地帯になったのである。もちろん、武蔵千葉氏が去った地には、千葉氏の残党が戻ったのだが、元の強力な地盤を持つ千葉氏では無くなっていた。

そこに上総の国の内紛である。小弓公方は自分を支える武田信清とその嫡男信応側を支持し、自身が中心となって、北条氏の支援を受ける信隆を攻めるのである。この小弓公方による武田信隆攻撃は天文3年と天文6年の二度に渡って行われる。最初の天文3年の時には、小弓公方が前面に出てきたこともあるのだろう。武田信隆が矛を収め、恭順の意思を示したために終息する。しかし、3年後、信隆は真里谷新地に立て籠り、さらに上総の峰上城、安房の百首城と連携して、小弓公方に反旗を翻したのである。信隆には自信があったはずである。彼の後ろには、北条氏と安房の里見義尭が控えているのである。事態を重く見た小弓公方足利義明は軍をおこし、峰上城攻撃に向かう。信隆は小田原に援軍を求める。そして、北条からの援軍、大藤金谷斎とともに、必死の抵抗を試みる。しかし、ここで、突然に、安房の里見義尭が小弓公方方に寝返り、百首城を攻撃したのである。武田信隆にしては小弓公方足利義明と里見義尭を両方相手にしては、とても勝ち目はない。たちどころに窮地に陥ってしまったのである。信隆は和を求め、事実上降伏したのであった。この戦いで勝ちをおさめた小弓公方の名声は高まる。実質的に、上総と下総の一部を手に入れることになったのである。


享徳の乱17


第1次国府台合戦
小弓公方は勢いに乗って、下総の中心、国府台に進出し、古河城攻撃を狙う。そして古河公方の防衛拠点の一つである関宿城を窺う姿勢を見せたのである。この動きに危機を感じた古河公方晴氏は北条氏綱に支援を求める。この時の古河公方は高基と晴氏との対立を制する形で、北条氏との関係を深めていた晴氏が古河公方の実権を握っていた。

北条氏綱は冷静に、小弓公方の動きを見ていた。氏綱の目には、小弓公方の実力は名声ほどではなく、その基盤は揺らいでいるように見えた。そもそも、小弓公方は真里谷武田氏の信清、信応父子と里見義豊に支えられていたのだ。しかし、天文里見の乱で、義豊は死に、代わって、北条の支援を受けた里見義尭が安房の統一を成し遂げた。さらに、それに続く、武田氏の内紛である。北条の支援を受けた武田信隆は敗れ去ったが、その内紛により、武田氏は明らかに弱体化した。里見義尭は小弓公方方についたが、それはたぶん、武田氏の内紛が長期化し、せっかく自分の手で統一した安房が、再び戦火にまきこまれるようなことがあってはならないと、あの男なりに考えたに違いない。ならば、交渉次第で、あの男をこちら側にさせることも十分可能だ。それだけのパイプはある。

天文7年、小弓公方の国府台に入るとの報は、すぐに、風魔の者を通じて、氏綱の元にもたらされる。氏綱が小田原を起ったのが、10月2日である。6日には江戸城も起って、松戸に陣し、国府台の小弓勢と古河との間を遮断する。この戦いについて巷間言われていることは、江戸川(当時は太目川)を渡る北条軍を有利な川岸で迎え討つべしと、里見義尭が進言したところ、小弓公方足利義明はそのような見苦しい戦いができるか。正々堂々と戦うのが公方の戦じゃと突っぱねたという。それで、敗戦を覚悟した里見義尭が戦を傍観し、公方側の敗戦が明らかになるとさっさと軍を引いたと伝えられている。

この戦いは第一次国府台合戦と言う。戦いは北条軍の一方的な勝利となった。小弓公方の足利義明が討たれたばかりでなく、嫡子の義純、弟の基頼ら、一族の主だった人を含めて140余人もの人たちが命を失ったのである。義明らの首は古河公方晴氏の元に、北条氏綱の手で送られたという。こうして、一時期、大きな勢力を持っていた小弓公方はあっけなく滅亡したのである。ここで、驚くことは北条軍の機動性である。2万もの大軍がわずか4日で、小田原から松戸に集結するのである。大軍を動かすには、命令だけではできない。兵糧などの準備も欠かせないのである。しかも、その動きは的確な情報の元に行われている。相模に情報網をもたない小弓公方は驚いたに違いない。古河を攻めようとして、突然、強力な北条の大軍が前面に立ちふさがったのである。

この戦いで北条軍には大きな被害が出ていない。そして、里見軍も無傷であった。そもそも、国府台に籠った小弓軍は北条軍に比べれて小勢であった。ただ小弓公方にとっては十分に勝算があると思っていたかもしれない。それは川を渡り切り、狭いところにあふれた敵を里見軍とともに挟撃することであった。しかし、その里見軍は動かなかったのである。それはたぶん、事前に、北条氏綱と里見義尭との間に暗黙の了解があったのではないか。氏綱は義尭に中立を守るのなら上総の小弓領を侵食するのを黙認するくらいのことは言ったかもしれない。だから後退する里見軍に対して、追撃戦もなく、致命的な打撃を与えることもなかったのである。考えてみれば、里見義尭の安房統一は、北条軍の支援を得て実現したことだった。結局、北条氏は主人のいなくなった小弓城などを傘下の千葉氏を通じて、獲得していくことになる。北条氏の東関東進出のきっかけとなった戦いであった。一方、里見氏もまた、武田氏の二度目の内紛につけこみ、傘下の正木氏を使い、上総の東部から江戸湾を北上していくのである。だから、一度は回避した衝突も、下総から南下を狙う北条氏と上総から北上を狙う里見氏とはどこかで衝突する運命にあったのである。それは野望を持つ者同士のぶつかりあいなのである。

第一次国府台合戦が終わってから2年後である。関東には新たに強力な戦国武将が登場する。それは上杉謙信である。武田信玄も関東に攻め入ることはあったが、それは極めて限定的であった。それに比べれば、上杉謙信は関東管領として、本格的に関東制覇を狙って登場してくるのである。折しも、安房の里見氏は北条氏の攻撃で、存亡の危機にあった。里見義尭の居城、上総久留里城が北条軍に包囲され、落城寸前の状況となっていたのである。この危機に、里見義尭はわらをもすがるつもりで、越後の上杉謙信に救援を求めたのである。この時、上杉謙信は越中に進出して、越中表の懸念を取り除いたところであった。そして、春日山城には関東から北条氏に追われて、庇護を求めてきた関東管領上杉憲政が彼の帰りを待っていた。そのような時に、謙信の元に、義尭の手紙が届いたのである。それは謙信を決断させるきっかけとなった。自分が関東に出れば、多くの関東武者が自分に従う。

永禄3年、上杉謙信は満を持し、越山して、関東に進出する。それは怒涛の勢いであった。北上野の拠点沼田城を攻略し、さらに那波城、厩橋城と下すと、これに勢いを感じた忍城の成田永泰や岩槻城の太田資政ら数多くの旧山内上杉家傘下の武将たちが雪崩を打つように謙信の下に下ったのである。そして、謙信軍が北武蔵にまで進出してくると北条軍はその勢いに押されるように部隊を撤収させていったのである。そして、上総久留里城を囲んでいた北条軍も城の囲みを解き、撤収していく。安房里見氏は救われたのである。

この有利な展開にに里見軍は積極的に動く。上総を制圧したばかりでなく、下総にも進出する。北条に対抗しうる勢力が房総の地にできたことで、北条に追われた人たちが里見氏を頼ることが多くなった。例えば、後に謙信に擁立された古河公方足利藤氏も北条氏の攻勢に耐えられず、里見氏を頼って、安房に逃げてくることになる。


享徳の乱18


第2次国府台合戦
永禄6年(1563年)、北条氏康と武田信玄が上杉謙信方の松山城を攻撃した際、謙信の要請を受けた里見義堯が嫡男義弘を救援に向かわせ、国府台でこれを阻止しようとする北条軍と衝突したとされる。これが第二次国府台合戦である。この時に、里見軍を率いていたのは嫡男里見義弘である。率いている軍勢は8千とも1万2千とも言われる大軍である。これだけの大軍ならば、里見氏上げての軍勢で、通常なら、当主の里見義堯が陣頭に立つはずである。だが、そうしなかったのは、義堯の老いもあったが、その軍勢が通常の軍ではなかったからである。目的は上杉方からの要請は兵糧の調達であったからである。急きょ、松山城を攻撃された謙信は軍の準備が万全でなかった。兵糧も十分でなかった。そのために、里見氏に兵糧の調達を依頼したのである。それにこたえる形で。里見氏は動いたのであるが、兵糧の調達ならば、屈強の兵士を行かせえる必要もない。多くは動員した農民たちであったであろう。そして、その兵の指揮も若い義弘にまかせたのである。

しかし、関東一帯に卓越した情報網を持っている北条氏が見逃すはずがない。機動力を生かして、瞬く間に里見軍を包囲していくのである。里見軍は追い立てられるように国府台に逃げ込む。国府台は一部に城らしきものはあるが、少数の兵で大軍を迎え討つには広大すぎる。ここは古代の朝廷が自らの威厳を保つために造らせた国府のあった場所である。人を迎えるには適した場所で、敵を防ぐ場所ではなかった。国府台を囲んだ北条軍は、夜明け、得意の奇襲戦を仕掛ける。関東武者の中に残る正々堂々の戦い方は、西国の戦い方を身に着けた北条軍にはないのである。もっぱら、少数の精鋭部隊が奇襲攻撃をかけ、敵が混乱した中を大軍で攻め落とすのである。この時にも、里見軍が油断している夜明け前を狙って攻撃を開始した。守るは戦慣れしていない農民たちである。瞬く間に陣中は混乱し、そこに北条の主力が襲いかかった。主将の里見義弘はかろうじて、重臣の安西実元が身代わりとなり、酒井胤治に救出されて戦場を脱出したのである。ただ、前述の里見弘次のように、多くの軍兵が犠牲になった。ただ、里見氏としては、これだけの兵の損失がありながら、瓦解しなかったのは、里見氏の主力がこの戦いに参加していなかったからである。だから第2次国府台合戦の第2幕が起こるのである。

上杉謙信が越後に帰った関東で、北条氏に真正面から立ち向かったのは岩槻城の太田資正と安房の里見氏である。もちろん地勢的には大田氏が真っ先に矢面に立つ。大田氏はまず謙信に助けを求めるのだが、謙信も越中や北信に敵を持つ。やむをえず、謙信は里見氏に太田支援を要請するのである。太田氏の松山城が攻略され、窮地に立った資正は江戸城にいた一族の太田資康を離反させて、荒川を超え、里見氏と一緒に北条氏と戦う姿勢を示したのである。里見義弘が国府台に着陣したのはこのような時であった。本来なら、荒川を超え、資康離反とともに江戸城を奪取するはずであったが、少し遅れた。

一方、北条方も江戸衆に動揺が広がっていた。江戸衆筆頭の太田資康の寝返りである。この動きを察知できなかった江戸城を預かる遠山綱景は焦るのである。北条氏から送られてきた人物だけに大きな失態であった。

里見義弘が国府台に陣をかまえたのが永禄6年の暮れ、そして、年明けには北条氏康が伊豆衆まで繰り出して、里見・太田連合軍との戦いに入るのである。この正月の7日から8日にかけて、両軍は激戦を繰り広げる。7日、まず、北条軍の先陣を切って突進してきたのは、江戸衆を率いる遠山綱景であった。がらめきの瀬を渡り、国府台に攻め登った。しかし、功を焦りすぎた遠山隊は本隊から離れすぎた。そこを里見軍につかれた。里見方の正木時茂、太田資康が高所から猛烈な反撃に転じたのである。激戦は続き、北条方は主将の遠山綱景はじめ、富永政家などそうそうたる武将たちが討ち死にし、北条方の大敗北となったのである。

その夜、国府台では里見方の戦勝の宴が繰り広げられた。しかし、北条氏康は夜陰に紛れて、兵を動かし、国府台を大軍で包囲する態勢を整えたのである。そして、整え終わると同時に、攻撃を開始した。四方から攻め上げる敵軍に、里見軍は支えることができない。こうして、里見軍は5300もの死者、北条方も3700人もの死者を出す激戦は北条方の勝利で終わったのである。里見軍は太田資正らを伴って、上総へ撤退することになる。この戦いで、北条氏は再び、葛西の地を押え、里見氏の北進を阻止することができたのである。

国府台合戦での里見氏の敗戦は、房総地区の勢力図を大きく変える。里見氏にとっての大きな痛手となったのは、右腕とも呼べる正木氏の離反であった。さらに、盟友太田氏の内部分裂が起こり、太田資正が子の氏資により、岩槻城から放逐されるという事件も起こった。そして太田氏資が北条側についたことで、さらに北条氏からの圧迫も強まることになったのである。

後退していた里見氏が再び、攻勢に転じるのは上杉謙信による下総臼井城攻撃に合わせて行われた永禄9年の攻撃からである。西上総の要衝、佐貫城を奪回して、江戸湾の拠点を握る。それに対して、北条氏は永禄10年、北条氏政が上総に進撃し、佐貫城の攻撃に入ったのである。北条軍にとっても大掛かりな作戦で、北条綱成率いる三浦水軍が海上から、さらには、傘下に入った太田氏資まで動員しての作戦となった。北条軍と里見軍は佐貫城に近い三船山で激戦を繰り広げる。里見義弘は声を荒げる。「この戦いで負けたら、里見の明日はない。」必死の里見義弘はすでに何度も戦いを経験している。一方、氏政は北条の御曹司である。強烈な戦場になれていない。この戦いはその差が出た。義弘の声限りの叱咤が里見軍の大勝利をもたらしたのである。さらに逃げる敵の標的となったのは殿を務めた太田氏資軍であった。裏切り者という感情も重なり、氏資はじめ、岩槻衆50余名全員が討ち死にするというすさまじさであった。

里見氏はこの戦いの余勢をかって、下総まで勢力範囲を広げ、さらに、酒井氏なども傘下に収めて勢力を広げていくのである。ただ、日本全体で見れば、中央に出現した強大な織田信長とそれに対抗する勢力との戦いと言う大きな流れが生まれていた。関東も北条氏、上杉氏、武田氏の思惑の中で揺れ動く。永禄12年、北条氏政は上杉謙信と講和を結ぶのである。「越相一和」と言う。武田信玄が駿河に進入し、今川氏攻撃に入ったからである。そうなると里見氏の立場はどうなるのか。攻勢を強める里見氏にとって、「越相一和」など認められない。里見氏の取った手は常陸の佐竹氏とともに、甲斐の武田氏と連携することであった。特に、北条軍の目が西に向いているこの時期は自らの勢力を広げる好機であった。だが、武田信玄が駿河をほぼ手中にすると、「越相一和」は崩れる。北条氏政は再び武田信玄と「甲相同盟」を結んでしまうのである。北条氏と里見氏との戦いは天正5年まで続く、その年、上総に侵攻した北条軍と里見氏は里見義弘が屈服する形で、和議が成立する。これを持って、里見氏の戦国時代は終わりを告げるのである。



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