享徳の乱13


江戸城
江戸城は太田道灌によって康正3年(1457年)に築城され、さらに、天正18年(1590年)、後北条氏旧領の関八州に移封された徳川家康が江戸入りし、築城したものである。ただ一般に言われているように、家康が入場した時の江戸と言うのは道灌による築城から時を経て、荒れ果てた城であり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあるだけで、城の東の低地を町割したならば10町足らずしかできず、しかも海水がさしこむ茅原である。西南の台地はススキ野原がどこまでも広がる武蔵野につらなるようなところである。城の南は日比谷の入江で、沖合に点々と砂州があらわれているという大変な辺鄙な場所であったとことさら家康にとって悲劇的に語られているのであるが、これは明らかに間違いである。もし、そのような場所を居城に据えようとしたならば、徳川家康と言う人物の慧眼さや実力を過小評価していると言わざるを得ない。「江戸にせよ。」と秀吉から命じられたというが、事実は家康がそこに居城を構えたいと言い、秀吉がそれを認めたものと思われる。なぜなら、そこが関東の地を支配するのに最も適した土地であったからである。江戸近郊に浅草の地を持っていたのである。古来より、又その当時であっても、浅草は関東では最も先進的な地であったのである。

時代は8世紀にさかのぼる。新技術や知識を持った渡来人たちが関東に移り住むようになる。武蔵の国に住みついた彼らは三つの産業を関東の地にもたらした。一つ目は秩父で起こした銅の産出である。日本最初の貨幣である和同開珎はこの秩父の銅が使われたと伝えられている。現在の秩父市黒谷に和同遺跡がある。この銅の発見はこの地域に莫大な利益をもたらすことになる。そして、この権益を確保するためにその地の坂東武者と平家が結びついて誕生したのが秩父流平氏である。その一族から畠山重忠などの有力武将が出てくる。二つ目は府中を中心にした織布である。それは現在の地名のも残る。調布は布を税金として納めた地と言うことであり、布田はそこで麻布が生産されていたことを示し、国領とはその地域一帯が国府の所領であったことを語る。さらには狛江も高句麗からの渡来人が開いた地だということから来ていると言われている。さて、本来の主題である江戸の地である。そこには推古天皇36年(628年)に創建された浅草寺がある。浅草寺は地域の広い信仰を集め、創建以来門前町として賑わいの絶えない場所となった。古ければ古いほど世俗権力は強く、ある意味治外法権的な場所となった。『浅草寺縁起』によれば、浅草寺の草創の由来は隅田川で漁をしていた檜前浜成(ヒノクマノハマナリ)と竹成(タケナリ)兄弟が黄金に輝く観音像を見つけ、土師中知(ハジノナカトモ)とともに、浅草寺を建立したという。浅草神社はこの3人を祭ったものであり、三社祭りはこの3人を讃える祭りである。檜前(ヒノクマ)と言うのは 変わった名前である。実は渡来人の家系だという。彼らがこの地に伝えたものは放牧である。ただ、不思議なことはヨーロッパからモンゴル平原の世界中の広い地域での放牧と言えば羊である。しかし、檜前(ヒノクマ)が伝えたものは牛や馬である。現在でも隅田公園の一角に牛島神社がある。伝えられているのは昔、浅草の沖合の島に牛がたくさん放牧されていた島があった。そしてその島の岬には神を祭る小さな祠があり、人々への恵みをもたらしていたという。その祠がのちに牛島神社になったのだという。延喜式によれば、檜前(ヒノクマ)の馬牧と神崎の牛牧という官営の放牧場があり、その別当が檜前(ヒノクマ)氏であったという。牛や馬は荷物を運び、田畑を耕す。戦時ともなれば、馬にまたがった兵士が戦場を支配する。そして牛馬からは皮革製品ができる。鞍や鎧、鞆、さらに靴などの武具には皮革が欠かせない、これらの品々はここで生産され、また馬とともに調として、京都へも送られたのである。さらに、牛馬の肉は食用となったし、内臓は薬に、さらに乳は飲用された。馬の尻毛は毛筆の筆先にとなったのである。だから、荒川(河口付近では隅田川)の南岸一帯は今の石神井近くから浅草の江戸湾に面するところまで、小川や湿地などで仕切られた広い区域が放牧地となり、豊かな島状の地を形成していたところから豊島郡と名付けられたのである。檜前(ヒノクマ)兄弟が黄金で仏像を作り、大寺を造営できるほどの富を得ていたことは十分に推測されることなのである。

さて、秩父の銅や府中の布をどうやって、京などに運ぶのかということである。秩父の銅は荒川を利用して、まず小舟で、河口にある浅草港まで運び、そこで荷を積み替えて、筵の帆船で京などへと送り出されたというのが当時の主要なルートであった。関東地方を東西に横切って流れる荒川(河口付近では隅田川と呼ばれる)は江戸時代でも、重要な流通ルートなのだが、この時代も物品を運ぶ主要な流通ルートであった。そしてそれらの荷が集まる浅草は物品の集積場所として重要な地となっていたのである。

秩父流平氏は代々秩父氏を名乗る。自らの銅の利権を守るために、荒川流域に進出し、流通ルートの安全確保に向かうのである。11世紀には豊島郡と下総の葛西(荒川河口の東側)に進出し、それぞれ豊島氏,葛西氏を名乗る。さらに12世紀半ばに秩父重綱の四男、重継が江戸郷に進出し、江戸重継と名乗り、いよいよ浅草を中心とする荒川の河口地帯に勢力を伸ばしてくるのである。そして、江戸氏は浅草や石浜などの地の有力者との婚姻を繰り返して、強力な地盤を造り上げることに成功するのである。

浅草は水の道を押えていただけではない。武蔵の国の府中と下総の国の国府とを結ぶ古代東海道の中間点に当たる豊島の駅でもあった。古代東海道は現在の墨田区にある墨田の宿から下総の国府にあたる国府台まで、現在も見事に直線的な道が残されているので、多くの識者はその延長線上に豊島駅があったはずだと推測する。だが、その間には自然の大河荒川が流れていたのである。古図によれば墨田宿には船溜まりと呼ばれる天然の入江があった。対岸にも同じような入江があればよいが、自然はそれほど単純ではない。当然、対岸でも同じように小舟が係留できる場所になると、そこは石浜である。名前が示す通り舟がつけやすい。浅草港でもよいが、小舟にとっては外洋である。出るのは優しくても、流れの速いい河口付近では入るのが難しい。干満の差もある。だから石浜と浅草の間は陸路で荷を運んだのである。荷の就籍場所なった浅草が豊島駅であったと考えるのが自然である。そして、そこからまっすぐ横に線を引けば、そこには府中がある。巷間言われている話を付け加えれば、東京の麹町と言うのは国府路から来ているのだという。浅草、豊島駅論の有力な話である。つまり、府中で織られた布も古代東海道から浅草に運ばれてきて、中央に送られていったのではないかと思うのである。


享徳の乱14


江戸氏
関東の中心部を押えた江戸氏に時代の流れが迫る。源頼朝の出現である。頼朝は伊豆で旗揚げし、戦いに敗れていた。源氏の棟梁である頼朝を支える勢力は関東には多い。その筆頭的な立場に立つのは相模の三浦一族であった。その時の江戸氏の頭領は江戸重長である。重長は平家の命令に従う。相模の大庭景親の誘いに従い、同族の畠山重忠や川越重頼とともに、三浦半島の衣笠城を攻撃して、三浦氏の長老、三浦義明を打ち取るのである。しかし、時代は頼朝に味方する。関東では信じられないことがたびたび起こる。反中央と言うことだけでこれだけの兵が集まるのである。本来なら、負け犬のはずの頼朝のもとに、安房、上総、下総の諸豪族が堰を切ったように参集してきたのである。さらに武蔵の兵に追われた三浦義澄の兵も加わり、その数は3万にも膨れあがったのである。そして、下総の国府台に入った頼朝のもとに秩父流平氏一門の葛西清重も駆け付ける。清重の参加で荒川までの道が開ける。頼朝軍が江戸氏の居館に迫ってきたのである。江戸重長は頼朝との一戦を覚悟する。近在の農民まで呼び集め、刀や槍、鎧まで与えて武装させたのである。

頼朝はまず、葛西清重を使い、説得を試みる。「あなたは武蔵の国の頭領だ。」という大げさなほめ言葉まで使った文まで持たせる。この時点での江戸氏の実力は畠山氏や川越氏、さらには豊島氏を凌いでいた。重長は頼朝の要請を断固拒否する。重長の頭の中には、自分の後ろには一門の畠山氏も川越氏も豊島氏もいる。自分が命令すれば、彼らは支援に駆けつけてくるはずだ。それにわれらはすでに頼朝方の三浦氏と戦ってしまっているのだ。もう後には引けぬ。頼朝も重長の拒否に、「不埒な奴。江戸重長を打ち取れ。」と激高する。それを葛西清重が必死で止める。「我らは一門で、戦をすることができません。」それに対して、三浦義澄が罵倒する。「重長はわが三浦義明を殺した張本人ぞ。」頼朝も江戸氏の力が侮れないことを知っていた。仮に江戸氏との戦いが膠着し、そこに秩父の平氏一門が駆けつけるようなことにでもなれば、せっかくここまで来た成果を棒に振りかねない。頼朝はまだ戦で勝利したことのない大将なのである。

膠着した事態は重長の思惑とは全く違う方向で動く。秩父流平氏一門の主導権争いが秘かに進むのである。畠山重忠が葛西清重の実父、豊島清光にささやく。豊島清光は葛西清重から助けを求められていた。豊島清光が畠山重忠に相談した時の答えである。「江戸重長が盾になっている今は我らが頼朝公につく絶好機ではないか。」こうして、豊島清光が頼朝方につき、清光の手引きで、江戸氏の領内を大きく迂回する形で進行する。頼朝軍は荒川に舟を浮かべ、武蔵の国に進み始める。そのころには、畠山重忠も川越重頼も頼朝の軍門に下っていたのである。この情勢に江戸重長も従うことになる。畠山重忠の誘いを受ける形で、荒川を渡った頼朝を彼らとともに出迎えたのである。だが重長の心は晴れない。頼朝との関係がうまくいくはずがない。幸いだったのは、頼朝の関心がしばらく西国での戦いに向けられていたからである。ただ重長が心深く恨んだ相手は畠山重忠であった。自分を支援するはずの人間が寝返ったのである。その上、いつの間にか、頼朝の寵愛を一身に集め、秩父党の頭領面をしている。その気持ちが、頼朝の死後、北条氏が台頭し、畠山重忠と対立した時になって表れる。重長はいち早く北条方につき、北条氏から恩賞の地を受けるほどの活躍を見せるのである。

鎌倉幕府の執権、北条得宗家とは良好な関係を保つことができた江戸氏ではあるが、鎌倉時代に入って、自らの持つ権益が衰退していく。それはまず、浅草が関東地方の主要な集積場の地位を失ったからである。頼朝は彼の父、源義朝の館のあった鎌倉に進む。頼朝は鎌倉を、浅草をしのぐ港湾都市にすることを目指す。小田原から石を運び、和賀江島(ワカエジマ)を造成し、大型の帆船が荷上げのできる港を造ったのである。さらに、宮大工や鎧職人なども呼び集める。何もなかった白浜の地に居館が立ち並ぶようになり、さらに鎌倉街道が、上中下と整備されて、多くの物資がこの街道を通じて、鎌倉に流れ込むようになったのである。鎌倉八幡宮の造営には浅草の宮大工も参加するほどの賑わいなのである。そして、これに反比例するように、江戸氏の経済基盤である浅草が衰退していく。そして、それと歩調をあわせるように自らの実力も失っていくのである。

江戸氏がその後、歴史上に名を残す事例はあまり多くない。南北朝時代である。当初、新田義貞に味方していた江戸氏だが、義貞の死後、挙兵した新田義貞の子、新田義興を裏切り、多摩川を渡る船に穴をあけて、これを殺し、足利方に服したという話が伝わっている。江戸氏の飛躍を物語る話ではない。さらに決定的な出来事が起こる。応永元年(1368年)秩父流平氏が反乱を超す。いわゆる平一揆である。江戸氏はこれに参加し、一敗地にまみれ敗退する。江戸氏はその後も傍流が生き残る形で、江戸郷で存続するのであるが、往時のような勢いはすでに無くしていた。

さて、享徳の乱が起こり、鎌倉公方が古河に移り住み、鎌倉が兵火にあい、荒廃すると、浅草は再び息を吹き返す。あらためて、関東の物流の集積地としての価値が高まるのである。主要な勢力も荒川や利根川周辺に集まっていた。特に公方が古河に移ったことで、鎌倉よりもはるかに便利な浅草港が重要視されるようになった。だが、その地を治める江戸氏の力は弱い。誰もがその権益を狙い始めていたのである。大田道灌が相模から品川に居を移したのも、その思惑があったからかもしれない。

きっかけになったのは千葉氏の内紛である。下総の有力者である千葉氏では千葉孝胤と千葉自胤が当主の座を争い。千葉孝胤が古河公方の支援を得て、下総の国府台に籠る自胤と実胤を攻めた。自胤達は敗退し、荒川の超えて、武蔵の国に逃げ込んだのである。当然そこは江戸氏の領内である。江戸氏に実力がある時ならば、逆に自胤等を支援して、荒川を境に、敵を撃退したはずである。しかし、江戸氏にはそれをすることも、自胤を下総に追い返すこともできなかった。荒川で踏みとどまった自胤は赤塚に、実胤は石浜に城を築き、武蔵千葉氏として、この地を実質的に支配することになるのである。

この情勢に江戸館を継いでいた江戸重広は扇谷上杉家に支援を求める。支援に駆け付けたのは大田道灌である。館に入った道灌は江戸館を江戸城に造りかえることを決意する。千葉氏だけなら道灌一人でも撃退できるだろう。だが、古河公方が何千もの軍勢を引き連れて、荒川超えをしてきたならば、とてもこの館では防ぎきれない。始まった工事は大掛かりなものになった。それは江戸重広の疑念を引き起こした。自分の館が奪われる。道灌と重広の言い合いが多くなった。道灌は言う。「あなたは自分の館が敵に奪われても良いのか。」重広は言い返す。「私はこれほどの工事を頼んではいない。」道灌はつぶやく。この御仁は今の情勢が分かっていない。何日かして、江戸重広は家族とともに、喜多見の吉良氏の下に移っていった。道灌が手配したのである。


享徳の乱15


大田道灌と江戸城
道灌はいつ敵が攻めてくるか分からない緊急事態の中で、城造りを始めた。想定されるのは古河公方の率いる8千ほどの軍勢である。江戸館は海に突き出した小高い丘の上にある。北には平川が丘を回るように流れ、日比谷の入江に注ぐ。南西の崖下には、千鳥ヶ淵が豊かな水をたたえている。この城を大軍で攻めてくるとしたら、西方面からである。荒川を渡った敵は浅草から国府路沿いに進み、野山と呼ばれていたあたりから攻めかかって来るに違いない。あるいは現在は北の丸公園に当たる台地からである。道灌が真っ先に取り組んだのは国府路からの侵入をどうやって防ぐかと言うことだった。道灌は野山に鍬を入れ、堀を造った。そこに千鳥ヶ淵の湧水を流し込んだのである。ただ、堀の周りを高く固める時間が無かった。ただ、水が流れるようにしただけである。そして、もう一つの敵の進入路である台地は、そこに馬出し曲輪を設けて、いつでも敵を迎え討てる場所にした。台地なので、登って来る敵を上から攻撃できた。その後、この付近周辺には、道灌得意の傭兵部隊の宿坊を設けている。江戸周辺の経営が順調に進み始めると、大田道灌の傭兵部隊は常駐化するようになる。彼らは軽装で足軽と呼ばれることもある部隊である。飯田橋の築土八幡宮の社地も、この当時は江戸城の防塁の一つであったとされ、それらに傭兵部隊の宿舎があったと言われている。こうして江戸氏の館は2年ほどの歳月をかけて、大田道灌の手により、中城、子城(ネジロ)、外城という三つの曲輪を持った大掛かりな城に生まれ変わるのである。三つの城の間には大きな段差があり、それぞれの城を通り抜けなければ中城には到達できなかったし、その道も曲がりくねった道としたのである。子城には兵器庫などがあり、外城には傭兵部隊が配置された。城として完成した江戸城の堀は平川と千鳥ヶ淵が結ばれ、大手濠、蛤濠、蓮池濠、乾濠、平川濠,道灌濠などと呼ばれる掘割で周囲を囲まれていた。そして当然のように大手門は浅草に面するように設けられていたのである。

懸念された古河公方軍の武蔵進入は無かった。荒川の対岸で止まったのである。その後、大田道灌の江戸城が大掛かりな敵の攻撃を受けることはなかった。古河公方軍と上杉軍との戦いがもっぱら上野国の東部から五十子の陣をめぐって、繰り返されていたからである。
緊張感の薄らいだ時、道灌の見た江戸城からの眺めは美しかった。そこには中国の洞庭湖を描いた水墨画のような景色が広がっていたのである。江戸城のある台地から海にせり出すように生えている黒松、葦や真菰の生える日比谷入江、その先には江戸湾がキラキラと光り輝いていたのである。

文人としての大田道灌の心が揺れ動く。本来であれば、戦時の最高指揮所となるところに静勝軒が造られる。これが母屋になる。ここが江戸城の中でも最も見晴らしの良いところである。静勝軒と渡り廊下でつながった東西に二つの客室が造られる。一つは富士山の眺望がすばらしい含雪斎、もう一つは江戸湾を浅草港へと行き来する船が絵のように見える泊船亭である。これらの邸宅のひさしには、板に書かれた詩文が掲げられていたという。その多くは大田道灌を慕って訪れる文人歌人の多くが残したものとされている。それほどに、江戸は平和であったのである。そして、近郊の浅草も復活の兆しを見せ始めていた。大田道灌は兵を引き連れて、各地を転戦したが、江戸城で敵を迎え討つような戦いは起こらなかったのである。逆に、大田道灌の治めた30年間、この地は道灌による軍需景気に沸いたのである。この地で馬具や鎧など多くの武具が生産されたことは間違いないことなのである。

その大田道灌が主人、扇谷上杉家の上杉定正に謀殺される。ただちに上杉定正は兵を江戸城に送り、道灌の息子,資康の住まいを江戸城の城外に移し、城は上杉家の城代、曽我氏により支配させるところとなった。大田資康は上杉家の家宰職には名目上、任じられていたのだが、実質は曽我氏という監視の下で、自由な動きは出来なかったのである。しかし、事態は急激に動く。扇谷上杉家と山内上杉家の対立激化である。当初、軍事力にまさる扇谷上杉軍が山内上杉氏の拠点、鉢形城に迫ったのであるが、この戦で、当主上杉定正が落馬し、死んでしまうのである。扇谷上杉氏を継いだ上杉朝良(トモヨシ)は武人タイプではない。むしろ書画を愛するような人物だったのである。戦線が膠着する中、山内上杉軍を支援する越後の大軍が押し寄せる。瞬く間に扇谷軍は崩壊し、上杉朝良は山内上杉顕定に降伏するのである。この間に大田資康は上杉顕定の家臣となり、江戸城を奪回する。上杉朝良は顕定の命令で、江戸城に蟄居させられるのであるが、そこは長く自らの家宰職をしていた家である。自由気ままに暮らすことになる。連歌師や詩僧、画家などを招き、ある意味、太田氏の資財を使って、一時期、大田道灌に負けぬほどの文化の華を咲かせるのであった。

時代は大田道灌の孫の大田資高の代になる。このころになると小田原から関東制覇に動き始めた北条氏綱が江戸城を目指して進み始める。大田資康、資高父子は、その婚姻関係から北条氏の攻撃で窮地に立っている三浦氏支援に懸命に動くのだが、結局、三浦氏は北条氏の前に滅亡してしまう。北条氏綱はこの勢いのままに、江戸城に迫ってきたのである。大田資高は戦わずに、北条氏に降伏する。山内上杉軍の支援も当てにできる状況ではなかったからである。その後、江戸城は北条氏の家臣遠山景政が支配する。その期間は大田道灌の支配した30年間よりも長い47年間にものぼるのだが、歴史的な照明はここに当たらない。関東地方の経済的な中心が、いつか相模の小田原に移っていったこともあった。だが、小田原は関東の西の片隅にありすぎた。だから力を失った古河と同じような運命にあったはずの浅草なのだが、鎌倉幕府統治時代のような壊滅的な打撃を受けることは無かったのである。もちろん、浅草の生み出す富の一部は遠山氏を通じて、北条氏の元に送られたであろうが、それも北条氏の庇護の下とにあった証である。むしろ、江戸城を押えた北条氏綱が小田原に固執し、江戸城を居城に据えなかったことが北条氏の限界を見せたように思うのである。

豊臣秀吉による北条攻めが行われた時、城主の遠山景政は彼の兵とともに、小田原城に籠ってしまう。残された大田一族は攻め来る豊臣軍に降伏するのだが、この江戸城を見た関西の兵はせせら笑ったという。「これが名将として名高い大田道灌の江戸城か」と。江戸城は周りを土の崖で守られていたからである。当時の西国の城は石を組んで造られた石垣で周りをかこっているものが主流であった。だから西国の兵士は田舎ぽいとせせら笑ったのである。だが、土の崖でもそこから攻め込まれなければ十分である。残存する鉢形城の荒川沿いの自然の崖を見て、これは攻めにくいと感じたように、道灌の江戸城の崖も同じように攻めにくいものだったに違いない。ただ、言えることは江戸城とその周辺は享徳の乱から戦国、織豊時代にかけてまで、戦火にあっていないのである。それだけ平和な城が防備に金をかける必要があったであろうか。ただ、徳川氏の時代になり、江戸城は石垣に囲まれた美しい城となる。それは防備よりも権威の象徴として、城の役目が変わったからである。



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