享徳の乱9


唐沢山城
下野(シモツケ)の国の南西部に那須連山からの稜線が関東平野に突き出している。そこに唐沢山城がある。標高241m、比高200m。関東の七名城の一つとされるが、他の城のほとんどが、江戸時代に形を変え、さらには幕末から明治の混乱期に破却されたりしたために、往時の面影を残すものはほとんどない。あるのは戦後に復元されたものばかりである。そのような中で、唐沢山城はそれが厳しい山城であるために、昔ながらの姿が今も残る。山の中に、本丸、二の丸、三の丸と高さをかえながら布陣し、それを支えるように見事に組みあげられた石垣や空堀が戦国の世の荒々しさを残しているのである。山城の最大の弱点は水である。水源が断たれるとさすがの勇者といえども守り切ることは出来ない。長尾景春が秩父での最後の戦とした熊倉城も、大田道灌軍によって、水源を絶たれことで落城したのである。だが、この唐沢山城には、この高い山の上とは思えないほどに豊かな水をたたえている池がある。大炊井戸である。山に降った雨が自然に、この池に集まるようになっているようで、それが幾多の大軍を向こうに回して戦った籠城戦にも耐えぬき、この城を名城としたのである。

この唐沢山城を築いたのは下野の国の南西部を支配する佐野氏である。佐野氏は将門の乱で活躍する藤原秀郷を祖とする。伝説ではこの藤原秀郷が唐沢山城を築いたとされるが、実際は享徳の乱で活躍する佐野盛綱(昌綱とも呼ばれる)によって、1491年に築城されたというのが正解であろう。もちろん、それ以前にも、見晴らし台や砦のようなものはあったであろうが、大軍を引き付けて、本格的な山城となるのは、関東の当時の城の形成過程を考えれば、藤原秀郷の築城と言うのは早すぎるように思われる。

下野の国の有力豪族は大きく四つに分かれていた。東南部には小山氏が、中央部には宇都宮氏が、北部には那須氏が、そして、南西部を支配していたのが佐野氏である。平安時代の後期から鎌倉、室町時代を通じて、この地に深く根を下ろしてきたのである。鎌倉時代に有力御家人であった話として、鉢木(ハチノキ)という能がある。ある大雪の夕暮れ、下野の国の佐野荘の外れにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求める。住人の武士は雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、自分は佐野源左衛門常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族の横領で、今はこのように落ちぶれてしまったと話す。囲炉裏の薪が尽きて火が消えかかった時に、常世は松・梅・桜のみごとな三鉢の盆栽を出してきて、栄えた昔に集めた自慢の品だが、今となっては無用のもの、これを薪にして、せめてものお持てなしに致しましょうと折って火にくべたそうである。そして、落ちぶれてはいるが一旦鎌倉より召集があれば、馬に鞭打っていち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦うと決意を語るのである。この旅の僧こそ、執権北条時頼であった。常世は鎌倉の北条時頼の屋敷に呼び出され、失った領地を戻してもらった上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土)を新たに恩賞として与えたのである。常世は感謝し、はればれと佐野荘へと戻っていったという話である。佐野源左衛門常世は佐野氏の嫡流では無かったようであるが、佐野氏が鎌倉の有力御家人であつたことは間違いない。そして、この話は佐野氏の中の語り草として、鎌倉公方を支える佐野家の武将たちの心の中に深く根付いていたのではないかと思われる。

余談であるが、源左衛門がもらったという所領である。加賀(カガ、今の石川県)とか、越中(エッチュウ、今の富山県)とか、近いところでも、上野(コウズケ、今の群馬県)である。彼の住む下野(シモツケ、今の栃木県)の佐野荘からは遠いのである。平和時であれば、その地に代官を派遣して、年貢を取り立てることもできるのだが、享徳の乱や応仁の乱のような大乱がひとたび起これば、その地を実質的に支配している有力武将に略奪されていく。京都の足利将軍にも、そのような多くの土地を関東に持っていた。しかし、幕府が古河公方を朝敵にして、決定的な対立関係に入ると、それらの土地はたちまち古河公方を支持する有力武将への恩賞の地となったのである。そして、一旦、その地を支配する武将の手に渡った土地は二度と再び、将軍の手に戻ることは無かったのである。そしてこれがまた、足利将軍の古河公方への怒りとなったのである。

さて、古河公方足利成氏が長躯伊豆への進撃を行い、堀越公方政知を亡き者にしようと襲撃を企てた事件はよほど、京都の将軍、足利義政の怒りを買ったようだ。政知は義政の庶兄にあたる。162通もの御内書を古河公方を支える有力武将たちに、あるいはその家臣にいたるまで、発給したのである。その最大の狙いは下野の有力武将小山持政と常陸の小田光重の寝返りであった。

小山持政は動揺していた。しかもその時、小山氏は自領と境を接する結城氏と領土争いを起こしていたのである。結城氏と言えば、古河公方を支える側近中の側近である。これまでも幾多の場面で、鎌倉公方を、そして古河公方を支え続けてきたのである。公方の裁定は必然的に結城氏に有利なものになるだろうということは予見できた。さらに、戦況は古河公方足利成氏が伊豆遠征に失敗し、敗れはてて、千葉氏のもとに身を寄せている状況である。そのような中での将軍の御内書である。持政に向かって、「治罰の臨時が出ている成氏にこのまま味方するのであれば、厳しく罰するぞ。だが、幕府方になるのであれば、恩賞も与えよう。」という心を揺するもので、古河公方軍の明らかな劣勢と結城氏との領土争いを武力で決着させるために、持政は上杉方へと鞍替えを決断するのである。小山持政の反逆は古河公方方に大きな衝撃を与えた。多くの有力武将たちが雪崩を打って、上杉方、つまり幕府方に帰参したのである。その中には常陸の小田光重も、佐野一族の佐野愛寿丸もいた。

上杉方はこの情勢を見のがさない。文明3年(1471年)40 月、山内上杉家家宰、長尾景信を総大将に、景春、大田道灌ら武蔵、上州、相模の軍勢6千余騎で、利根川の北を東山道に沿って進んでいく。まずは足利、新田、大窪へと向かっていくのである。

佐野氏を率いる佐野盛綱はこの情勢の変化に身構える。周りはすべて上杉方となった。佐野氏の身内からも裏切り者が出ている。公方軍を支えるためには、その象徴である古河城だけは守りきらなければならない。だが、その古河城には成氏様はいず、もぬけの殻だ。盛綱は決意する。自分と唐沢山城だけで、古河城を守ると。

まず、大窪に近い八椚城(ヤツクヌギジョウ)に一族の赤見や大高、加胡などで守らせて、上杉軍の進撃を阻止しようと図る。だが上杉方は城の様子を知る佐野の旧臣を利用する。すでに寝返っていた山越を城の北に配し、佐野の救援軍と装おわせる。その奇襲部隊の進出に合わせる形で総攻撃をかけたのであった。城はあっけなく落城する。城方の多くの武将が山越の工作に乗せられて、山のふもとに導かれ、そこで命を落としたという。

敵はひしひしと迫ってくる。敵の次の目標は館林城であった。館林城は周りを沼や湿地で囲まれた城である。難攻不落であるが、守るにして、支援するにしても、限られた場所からであった。館林城へは古河方の結城氏や小山氏のうちの反持政の勢力が駆けつけてくる。それだけ、館林城の重みが古河公方方にとって大きかったのである。佐野盛綱はこれらの兵をまとめて、支援をこころ見る。だが、大軍で城を包囲した敵軍を突破することは出来なかった。そして、城を守る赤井文三が上杉方に降伏して、この戦いは終わった。


享徳の乱10


佐野盛綱の奮戦
佐野盛綱は敵軍がまっすぐに古河城へ向うことを恐れた。このまま進めば、古河城の落城は必至だった。盛綱は遊軍を繰り出して、敵を北に誘った。敵もこれに乗った。大田道灌などは、敵の誘いなど無視して、古河城へと向かうべきだと主張したが、長尾景信も、景春も、「上杉軍が馬鹿にされて、このまま、黙っていられるか」と佐野氏への攻撃を命じたのである。

上杉方の大軍が佐野を目指して進み始める。佐野盛綱は家族と全兵士を唐沢山城に上げる。それだけの設備と準備をしてきた城である。「十分に勝算はある。」と盛綱はつぶやくが、賭けに出たことは間違いのないことであった。山城であるが、これほどの大軍を前にした戦をこれまでにしたことは無かったのである。

敵が城を包囲し終わり、どこから攻めていくかを思案していたころ、盛綱は山のいたるところに兵を伏せた。彼は兵に告げる。「勝っても無理に追うな、逆に負けそうであるなら、山頂の城に戻れ。」

上杉軍が山に登り始める。それだけで、兵の息はあがる。盛綱の作戦はうまくはまる。敵兵は山の至るとこころで、城方の兵の待ち伏せ攻撃を受けた。そこに敵がいるはずだと数を頼んで突っ込んでいくと、もうそこには敵の姿は見えなかった。こうして、上杉方は山頂の城にも近づけないままに、1日が経ち、2日か経った。さすがに武勇にたける長尾景信もイライラし始めた。「もう、良い、こんな城はほっとけ。こんな城で時間をつぶすことはない。いずれ、上杉方の勝利が決まれば、降伏してくる。」

上杉軍は兵をまとめて、古河城攻撃に矛先を変えたのである。そして陣をかまえたのは児玉塚であった。この児玉塚には帰順した小山勢も加えて、さらに大軍になっていた。だが、唐沢山城攻撃の失敗が尾を引いていた。背後から佐野勢がいつ追撃してくるか分からなかった。しかも、その攻め方は奇襲である。実際に、盛綱は夜襲を仕掛ける。そして、再度、敵を唐沢山城に誘うのである。この繰り返しが、結局、上杉軍の古河城攻撃を思いとどまらせることになる。

長尾景春は佐野勢を追って、児玉塚から東の赤塚に陣を移し、佐野盛綱が逃げ込んだ甲城を攻撃する。上杉軍が陣をかまえた赤塚の北方、2キロほどのところにある岩舟山に造られた砦である。景春は3千騎で、この城を攻撃する。しかし、甲城は、その名が山の形を表しているように急峻である。さらに、盛綱も必死で守る。上杉軍の執拗な攻撃も、ついには撃退されるのである。

長尾景信は佐野盛綱に翻弄され続けていた。さすがの長尾景信もこのまま、佐野氏と戦い続けていることが、小山氏などを凋落させた幕府の努力を水泡に帰させかねないことを悟る。今ならまだ間に合う。敵の拠点、館林城まで攻略した成果は大きい。景信は今回の戦果に満足して、上州に引き上げることを決断する。ただ、景信自身が予感したように、上杉軍が去った下野の南西部は、佐野盛綱らに手によって、再び、古河公方方の支配地に戻っていくだろう。だが、それでも景春が最も期待していたことがある。小山持政の小山氏の存在である。下野の最有力武将である彼の存在が下野を上杉方にするはずであった。だが景信の期待はあっけなく敗れる。この戦のあと、小山持政は一族や家臣から総反発を受け孤立し、小山氏自身が衰退していくことになる。そして下野は再び古河公方方の地となり、古河公方足利成氏は古河城に戻ったのである。

下野の国では小山氏と宇都宮氏の衰退が顕著になる。ともに、一族の内部から下剋上が起こるのである。佐野氏も一族の分裂があったのだが、佐野盛綱の活躍で、勢威は高まる。ただ、佐野氏の場合には、古河公方と言う重たい蓋が覆いかぶさって、それ以上の伸長ができないままに時を重ねていくのである。その間に南から北条氏が、北から上杉謙信が、西からは武田信玄が、さらには東からは力を蓄えつつあった佐竹氏が関東の中心部に向けて進撃を開始していた。佐野氏がある程度、軍事的な力を持っていて、この当時には珍しい鉄砲も持っていたとされ、さらには地理的にも、ちょうど、上杉と北条のぶつかりあう場所に位置していたので、双方にとって、佐野氏の去就が需要な意味を持った。味方にするか、敵にするかで大きな違いがあった。逆に言えば、佐野盛綱と言う人物は双方の陣営とって、欠かせない人物であったのである。

唐沢山城は南の北条氏と北の上杉謙信から、延べ10回もの攻撃を受ける。名城と呼ばれるゆえんは、単に美しいという外観だけではなりえない。そこには大軍を前にして、ひるまず戦う歴史を持っていなければ、そうならないのである。唐沢山城にはそんな歴史があった。その歴史を簡単に触れてみよう。

永禄2年(1559年)北条氏の家督を継いだばかりの北条氏政が3万5千の大軍をもって城を包囲した。この時には上杉謙信の支援もあって、北条軍を退却させた。
永禄4年3月(1661年)上杉謙信が川中島で武田信玄と戦っていた隙をついて、氏政の父、北条氏康が唐沢山城を囲む。大軍の前に孤立する佐野盛綱は北条氏に降伏する。北条氏が佐野氏を攻撃し、降伏を求める時には、必ず古河公方の命令と言う形を使う。佐野氏の中には古河公方を前面にたてる親北条方の勢力が根強くあって、一族の分裂を恐れる盛綱は時に、北条に屈する道を選ぶのである。
永禄4年12月(1661年)降伏に怒った上杉謙信が唐沢山城を攻撃する。だが、豪雪に助けられて、持ちこたえる。
永禄5年3月(1662年)厩城で年を越した謙信が再び、唐沢山城を攻撃する。しかし、この攻撃を盛綱は必死で守り切る。この攻撃に耐えた佐野盛綱の名声が上がり、一族の団結が深まる。
永禄6年2月(1663年)北条氏康は武田信玄の援軍を得て、武蔵・松山城を手に入れる。これに反撃する形で、上杉謙信が再び関東に入ると、諸将を攻略して次々に降伏させた。この勢いに押され、佐野盛綱も降伏し、唐沢山城も開城する。たが、上杉謙信が春日山城に帰ると、佐野盛綱は再び北条側に戻る。盛綱の頭の中には、軍略的には上杉謙信の優秀さは認めていても、越後と言う国境線の長い国の主である謙信には、佐野氏の危機に対応できない時が来るのではないかと考えていたようだ。あの川中島の合戦の時のように、そして、何よりも北条氏は形式的にしろ、古河公方家を支える側であり、佐野家がこれまで古河公方を支えてきた歴史とも合致していた。以後、盛綱は時の勢いで、謙信に降伏することもあったが、時を経ずに北条方になることが多くなった。しかし、それだけ多くの寝返りを繰り返しながら、北条氏康も上杉謙信も、佐野盛綱の命を取ろうとはしなかった。しかも佐野氏の領土も安堵したのである。


享徳の乱11


その後の佐野氏
永禄7年2月(1564年)上杉謙信は本格的な唐沢山城攻撃を行う。この時の攻撃では、城は二の丸、三の丸にも攻め込まれ、本丸に追い詰められた佐野盛綱もついに力が尽る。しかし、このような時にも、謙信は盛綱と佐野氏を許すのである。謙信と盛綱の間には不思議な友情が生まれていたのかもしれない。
永禄7年8月(1564年)北条氏康が大軍を率いて、北関東に攻め上がってくると、佐野盛綱は北条軍の前に、戦うことなく降伏します。
永禄7年10月(1564年)今度は北から上杉謙信が唐沢山城を目指して、進撃を開始します。今度の盛綱は戦いません。すぐに降伏を選びます。盛綱は血気盛んな若い武将から年を重ねて老獪な武将に代わっていたのかもしれません。だが今回の謙信は盛綱から人質をとります。その上で、春日山に凱旋したのです。
永禄9年(1566年)その年、佐野盛綱は北条氏に寝返ります。この年にどのようなことが起こっていたかと言うと、北条氏康・氏政父子は越中の一向宗と結び、一向宗支援を鮮明にします。それによって、上杉謙信が越中表に出撃する回数も増えていった時期に当たります。
永禄10年2月(1567年)上杉謙信は唐沢山城攻撃を開始します。ただ、冬のこの時期、雪が進撃を阻みます。そして雪の解け始めた3月に再び、城を取り囲みます。寝返るたびに、このように執拗に攻められると、さすがの盛綱もいい加減にしてほしいと思ったでしょうが、仕方がありません。再び、降伏します。そして、不思議なことに盛綱の命と佐野氏は救われます。このころになると、盛綱は北条軍にしろ、謙信軍にしろ、攻めてきたら降伏する。絶対に戦うなと言う戦略を固く守っていたようです。それで佐野氏が守れるならば、それが良いと考えていた節が見えます。
永禄12年12月(1569年)佐野盛綱が再び、北条側に着くと、年の明けた永禄13年1月(1570年)、謙信は軍を率いて、唐沢山城攻撃に向かいます。しかし極寒の最中です。謙信は城方に威圧を加えただけ引き上げます。そして、それを最後に上杉謙信が唐沢山城を攻撃することはありませんでした。年号は運命の天正年間に変わります。中央では新興の織田信長が巨大な勢力になりつつありました。そして天正2年(1574年)に佐野盛綱が亡くなります。謙信には唐沢山城を攻める楽しみが消えたのでしょう。

この上杉謙信による唐沢山城攻撃について、のちに豊臣秀吉に仕えた佐野房綱が次のように述べています。「謙信が越山して関東に入ると聞くと諸豪族は身構え、三国峠を越えて帰ると聞くと大夕立の雷鳴がした跡のようで、ようやく息をつく。」と。それほど関東の武将たちは謙信の武力を恐れていたのです。

天正2年(1574年)佐野家の家督を嫡男の佐野宗綱(サノムネツナ)が継ぎます。佐野宗綱は父盛綱の北の上杉、南の北条と言う2大勢力の間を泳ぐようなやり方を好みません。好戦的で、血気にはやる宗綱は佐野家の独立を目指すのです。そして、手を結んだのは徐々に力を持ってきた東の佐竹氏です。宗綱は佐竹義重と同盟を結び、北条家と敵対することを決断します。

天正4年6月(1576年)佐野宗綱は織田信長に接近します。これを良しとする信長は宗綱を信長の名で但馬守に推挙します。これに感激した宗綱は信長に礼金を送っています。小さなことのように見えますが、この叙勲によって、佐野家は初めて、古河公方の呪縛から解き放たれることになります。それは古河公方を操る北条氏からの独立でもあったのです。

天正9年(1581年)佐野宗綱と唐沢山城は北条氏の攻撃を受けます。北条氏照率いる大軍に攻め込まれます。しかし、宗綱は待っていましたとばかりに反撃します。さらに、佐竹氏の援軍もあって、見事に北条軍を撃退します。しかし、この勝利がますます宗綱を有頂天にさせます。確かに佐野宗綱の軍は負け知らずです。だが命知らずの若武者の危うさも目立つようになりました。宗綱には盛綱の持つ老獪さも必要だったのです。

天正10年(1582年)甲斐の武田氏が滅亡します。そして、その余勢をかって、滝川一益が上州に進出すると、佐野宗綱はいち早く、滝川一益のもとに参じ、織田信長の旗下に入ることを鮮明にします。だが、それから間もなく、宗綱の描いた戦略が崩れていくことになります。本能寺の変が勃発したからです。北条軍は北上し、滝川一益と神流川で戦います。この時、佐野宗綱は一益の支援のために、州和田に出陣しました。しかし、滝川軍は破れ、関東の地から撤退していきます。北条氏の関東での支配地は大きく広がります。北条氏に従う武将も佐野氏の周りに多くなりました。佐野氏が難的であることを知っている北条氏は、この時に、昔,南総の里見氏攻撃に使った手を用います。降伏した武将たちに佐野氏への攻撃を命じるのです。攻め続けることで佐野氏の弱体化を狙ったのです。

宗綱と北条方との戦いは続きます。天正12年4月(1584年)には北条方の富岡秀高の小泉城を攻撃し、沼尻の合戦となります。さらに天正13年元旦(1585年)には長尾顕長との戦いに入ります。これまで、長尾勢との戦いでは、一度も遅れを取ったことがないという増長心があったのでしょう。彦間の戦いで、彼は命を落とすことになります。敵の挑発に乗り、味方の先頭を走っていた彼は、いつの間にか単騎で敵陣の中に突っ込んでいました。そこを鉄砲で撃たれ、落馬したところを敵に囲まれ、討ち死にするのです。たぶん、自身の武勇を過信していたことと、血がのぼって、周りの状況を把握できないほどに興奮していたのかもしれません。

宗綱の死は佐野家の運命を決定的に変えます。歴史にもしもはありませんが、もし宗綱があと5年ほど長生きをしていたら、佐野家は石高4万石ほどの大名として、江戸時代に存続してかもしれません。もちろん、佐竹家が東北に改易されたように関東の地ではないかもしれませんが、その可能性が高かったのです。

宗綱に男の子供がいなかったことで、佐野家は再び分裂します。親北条方と反北条方とに佐野家のみならず、一族の赤見氏や田沼氏なども巻き込んで、収拾のつかないほどになります。反北条方はこれまでと同じように佐竹氏と結んで、北条氏に対抗しようとするものですが、ここで、北条が動きます。秘かに北条に味方する勢力の手引きで、唐沢山城を占拠し、反北条方の佐野房綱などを追い出して、北条氏康の六男、北条氏忠を佐野宗綱の養子とし、佐野氏忠と名乗らせ、宗綱の娘、乗讃院と結婚させて、佐野家の家督を継がせます。こうして北条傘下に入った佐野家の運命は、北条氏が天下人豊臣秀吉と対立したことで劇的に変わります。戦が起こり、佐野氏忠は北条の一族として、小田原城に籠ります。城主のいない唐沢山城は豊臣軍に降伏します。

北条氏の滅亡後、一時期、佐野房綱が佐野家の旧領3万9千石を秀吉の名代として、引き継ぎますが、それも徳川家康の関東移封で、消滅し、その後の佐野家の人々は、一部は徳川の旗本として、さらに多くの人々は紀伊の徳川家や譜代大名の家臣として、散りじりになっていきます。


享徳の乱12


佐野家の一族、田沼意次
紀伊の徳川家に仕えた佐野家の一族に田沼氏がいます。徳川吉宗が八代将軍となり、江戸に連れてきた家臣の中に田沼意行もその一族です。その長男が有名な田沼意次です。徳川家重、家治治世には将軍の信任を得て、田沼時代と言われるほどに権勢をふるいます。その田沼氏は佐野家の傍流です。江戸には旗本となった佐野家が存在します。当時の当主は佐野政言です。しかし、田沼氏から佐野氏が引きたてられることはありません。武者の誇りを持つ佐野政言と経済的な繁栄を専らとする田沼氏とは肌が合わなかったのでしょう。ある日、若年寄に出世した意次の子、田沼意知を政言が江戸城内で切り殺します。理由はいろいろあるようです。意次が先祖粉飾のために、藤姓佐野家の系図を返さなかったことや下野にある佐野大明神を意知の家臣が田沼大明神と勝手に名前を変えてしまった事などがあると言われています。これに対して、宗綱の血を引く政言が黙っているわけがありません。頭に血が上り、江戸城内で意知を切り殺してしますのです。天明4年(1784年)のことです。この事件は政言の乱心として処理されるのですが、当時、わいろ政治として評判の悪かった田沼父子です。政言はたちまち世直し大明神として祭り上げられます。一方、田沼意次はこの事件を契機に急速に勢いを衰えさせていくのですが、田沼氏が相良藩5万7千石の大名となったことは事実です。田沼氏が佐野氏の一族であったことも間違いありません。

ちなみに私の家内は佐野家の末裔です。一族が分散していったころ、家内の先祖は松平周防守家に仕え、代々重職を担ってきたそうです。松平周防守家は代々老中などの幕府の要職を務めてきました。幕末には川越藩となり、明治を迎えることになります。家内の先祖は今では川越の観光名所となっている時の鐘の建造などに貢献したそうです。



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