享徳の乱8


なぜ、関東の地から強力な戦国大名が生まれなかったのか。
源頼朝が鎌倉に入ったのが治承4年(1180年)のことであるから、それから300年の長きにわたって、勇猛で知られた坂東武者の子孫たちが日本の隅々にまで、支配を広げていったのである。だが、戦国時代に入り、関東の武者たちに強力な戦国大名の地位を与えられることは無かった。むしろ、関東の地は伊豆から攻めあがる北条氏、北の越後から押し寄せる上杉謙信、その間隙を縫うように関東進出を図る甲斐の武田信玄という戦国時代を代表する名将たちの草刈り場となってしまったのである。相模で有力な勢力を誇っていた小田原の大森氏も、鎌倉時代から続く名族三浦氏も一時的には互角以上の戦をしながら、結局は守護の扇谷上杉家の弱体化のあおりを受けて、北条氏の前に滅び去ったのであった。

鎌倉時代には関東の最強集団であった秩父七党も、長尾景春の乱と大田道灌による掃討戦の中で衰退し、そこへ甲斐の武田信玄が侵入してくることになった。上野の山内上杉家が没落し、その庇護を越後の長尾景虎に求めた時、長尾景虎の野心は関東に向かったのである。長尾景虎は山内上杉家を継承し、関東管領の職を継いだのである。名を上杉謙信と改めた彼は華々しく関東に進出し、山内上杉家の本領、上野ばかりでなく、武蔵の地にまで拠点を置くことになる。

そして、甲斐の武田氏が滅び、上杉謙信が死んで、南関東がほぼ北条氏によって、制圧されていっても、さらに言えば、豊臣秀吉によって天下の大勢が決まり、その上方軍による関東攻めが行われた時でも、ほとんど何らの抵抗もできずに、その軍門に下ったのである。鎌倉から室町時代にかけて、あれほどに強力であった関東武士団はどこに行ってしまったのであろうか。

一部には上方軍の近代兵器、例えば鉄砲などの威力が違っていたと言うものもいる。だが、同じように近代兵器にはそれほど恵まれていなかった武田信玄の部隊や上杉謙信の軍隊は他のどこの部隊にも引けを取らない強力さを誇っていた。つまり、武田信玄や上杉謙信と言う統率力と戦略さのある大将が生まれていれば、関東でも十分に大きな勢力を造りえたのである。もし仮に、北条氏が進出する50年前にそのような傑出した人物が登場していれば、関東の戦国絵図、しいて言えば、日本の戦国時代も大きく変わっていたかもしれないのである。

大田道灌が江戸城を造り始めたころ、越前では、長禄合戦が始まる。長禄2年(1458年)に起こったこの合戦は越前守護、斯波義敏に対して、越前守護代であった甲斐常治が起こしたものである。戦国時代に起こる多くの下剋上の出発点が守護と守護代との争いであることは珍しくない。伝統的な権威主義をよりどころにする守護と実力主義を標榜する守護代との争いが引き金となるのである。もちろん、守護と守護代の二人で戦ったのではない、多くの国人衆がどちらかについて、戦いが大きくなったのである。越前の場合には甲斐常治方に朝倉敏景という軍事的な天才がついた。朝倉敏景はこの混乱を利用して、越前を支配することになるのだが、そこには巧みに、権威主義と実力主義を操りながら、支配を強めていく姿が見える。

朝倉敏景は17条の家訓を残している。そのほとんどは実利主義と実力主義である。1条では重臣を固定してはならないとする。つまり能力のあるものを用いよということである。4条では名品などよりも実際の戦の役に立つ槍を買えと説く。13条では吉日や方角などに迷わされずに、勝てる戦ならば戦いに入れと。朝倉敏景は当時としては珍しいほどに先見性に秀でた指導者であったのである。その先見性はどこからきたのか、たぶん、彼が応仁の乱の加勢のために京にいたころに身に着けたものではないかと思われる。京や堺には、武士よりもはるかに実力主義で、実利主義の商人たちが活躍していたのである。だが、その朝倉敏景も、実利主義や実力主義を徹底できなかった。それは信長などが登場し、実力主義が自然なことだと考えられる時代よりも少しだけ先に生まれていたからである。そして、実力主義を徹底すれば、朝倉家自体の足元も救われかねないことを知っていたのかもしれない。彼は後の項目で、内向には身内を雇えと相反するようなことを残しているのである。

だから、本格的に実力主義を徹底したのは斉藤道三や松永久秀のような人物の出現を待たなければならなかったのではないだろうか。だが、彼らは実力主義を徹底するあまり、多くの権威主義を信奉する勢力を味方につけることができなかったのである。そして、最後には孤立し、非業な死を迎えることになる。

守護代から実力主義を第一とする戦国大名になった典型的な例は織田信長と上杉謙信(旧姓長尾景虎)である。ただ、織田家が尾張を、上杉家が越後を実質的に支配したのは、彼らの父、織田信秀と長尾為景である。彼らはどちらかと言えば、権威主義に傾いていた人物である。長尾為景の場合には、関東管領家、山内上杉家の内紛で、同族の長尾景春に引きずられる形で、守護の上杉房能を対決することになるのだが、それまでの間はひたすら守護のために戦い続けていたのである。つまり時代が前に進まなければ、守護に代わるという決断も難しいのである。だから完全な戦国大名となるのは信長や謙信と言う次の世代にならざるを得なかったと思われる。

大田道灌は長尾景春に比べて、はるかに権威主義を大事にした人物である。その考え方は織田信秀や上杉為景よりも強い。人は時代から受ける考え方に左右される。大田道灌がもう少し、長尾景春に近い考え方の持ち主であったのなら、関東地方の戦国時代は大きく変わっていたかもしれない。あるいは長尾景春と言う人物がもう少し遅く生まれていたのならと思う。彼は関東武士団の中では時代の先を行く人物であったのかもしれないのである。いづれにしても、このように考えていくと、関東で強力な戦国大名が誕生する可能性があったとすれば、大田道灌とその子孫であったはずである。大田道灌が尾張の織田信秀と同じように、守護である扇谷上杉家に献身的に使えたことは時代の流れともいえる。もし、道灌が殺されずに、そのまま扇谷上杉家が関東支配を続けていったのなら、軍事力を持つ道灌の次の世代が、尾張の織田信長のように、下剋上を成し遂げていたはずである。ただ、現実は道灌が殺され、それに対する仇討戦ののろしさえも上げられなかった太田氏の子孫たちを考えると、彼らもどっぷりと伝統的な権威の前にひれ伏していたことがうかがえる。

権威主義と実力主義の間で、誰もが心を揺らすのであるが、関東の武士団は土地柄、権威主義を信奉する気持ちが強かったのではないかと思われる。尾張では信長が名目上ではあるが守護の斯波義銀の名で命令を発したことがある。だが、信長が期待したような反信長陣営がこの命令に従うことは無かったのである。一方、関東では、これよりずいぶんと時代は下るのだが、北条氏康が北条氏の娘の子である古河公方の足利義氏に命令を出させたことがある。関東の諸候に派兵を命じたのである。そしてこの命令に、まだ北条氏の臣下でもない下野の佐野氏などが従ったことに氏康を大いに喜ばせたということが伝わっている。関東と尾張を含む畿内とでは人の考え方に大きな開きがあったことが伺えるのである。この考え方の違いこそ、関東に強力な戦国大名を誕生させなかった大きな理由と考えられるのである。



トップページに戻る




Y-FP Office Japan by Idea21 Ltd.