享徳の乱3


古河公方の遠征失敗。
古河公方軍対上杉氏の戦は上野(コウズケ)平井館を拠点として、必死に防備に回る上杉氏と古河公方方の小山氏などの諸将の攻撃と言う構図がしばらく続く。だから、戦いの場は自然に、西武蔵から東上野(コウズケ)の地が主戦場となったのである。この東武蔵の地、利根川と荒川に挟まれた湿潤な地に、元小山川、女堀川、身馴川、志戸川という多数の川が合流する場所があり、そこへ本庄台地が突き出している。五十子(イカツコ)である。上杉方がこの五十子(現本庄市)に陣城を築き始めたのは長禄元年(1457年)ころと言われている。陣城とは館や砦が城として発展していく前段階である。兵士たちはここに集まり、ここから決戦場に向かうこともあったし、ここで公方軍の進出を阻むこともできたのである。さらに言えば、上杉方にとって、絶対に守らなければならないものは、上野(コウズケ)から鎌倉を結ぶ鎌倉街道(上の道)であり、この道を確保することによって、上野(コウズケ)を拠点とする山内上杉家と相模を拠点とする扇谷上杉家との連携を深めることができたし、それぞれの軍が必要に応じて合流することもできたのである。まさに上杉方にとっては生命線とも言える道であった。

五十子陣城が機能するようになると、さすがの公方軍の攻勢も弱まり、両者の争いは膠着状態に入る。この陣城の東方面は広大な湿地で、古河側から攻めるにはとても困難な場所である。もちろん、公方軍も傍観していたわけではない、何度もこの陣城に攻撃をかけた。文明5年(1473年)の古河公方軍の攻撃では、扇谷上杉家の当主上杉政真が討ち死にする。それほどの損害を上杉方に出させたのである。だが、攻撃も徐々に弱まる。撃退されることが多くなったのである。さらに公方側の攻撃を弱めたのは、南から圧力を加える扇谷上杉家の太田道灌の存在であった。膠着状態は自然に自分の領域の確保に向かうことになる。太田道灌が武蔵の国の支配を強めたのもその一環であったし、古河公方が自らの家臣を上総や安房に派遣して、その地の制圧に動いたのも、そのころであった。

房総半島の先端部、安房や上総は東京湾(当時は江戸湾)を挟んで、三浦半島の強い影響力を受けていた。三浦半島には扇谷上杉家を支える強力な三浦一族がおり、彼らの水軍は当時、東京湾から相模湾にかけて、時には伊豆から伊豆大島まで、活動の場を広げていたのである。だから、三浦半島の対岸、安房や上総には上杉方の地勢力もかなり存在していて古河方の千葉氏や結城氏にとって脅威になっていた。だから古河公方成氏は安房に里見義実を、上総に武田信長を派遣して、その地の上杉方勢力の討伐を進めたのである。

さて、長禄元年(1457年)将軍足利義政は古河公方足利成氏を朝敵とし、公方職を罷免した。そして次の鎌倉公方に、天龍寺で僧籍になっていた異母兄の足利政知を就任させたのである。足利政知は勇躍し、翌年鎌倉に向かって出発したのだが、政知が鎌倉に到着することは出来なかった。鎌倉自体が荒廃していたこともあったし、相模の国の中には、古河公方方に心髄する勢力も少なくなったからだった。そして何よりも領地をめぐって、守護の扇谷上杉家と対立することが多くなったからである。こうして、政知は伊豆にとどまり、その地名を冠して、堀越公方と呼ばれるようになる。

この堀越公方の存在はよほど、古河公方成氏にとって、目障りであったのであろう。堀越公方の存在が関東の情勢を激変させることにはならなかったのであるが、自分だけが鎌倉公方であるという自尊心をひどく傷つけたのかもしれない。もちろん足利成氏が関東武者に命令できるのは鎌倉公方であるという権威を持っているからである。その権威を否定されたことに我慢が出来なかったのかもしれない。無謀な戦に打って出るのである。文明3年(1471年)成氏は夜陰紛れ、結城や小山の兵を率いて、武蔵国を突破して箱根山を越え、長駆して堀越公方・政知のいる伊豆へ進撃せんと図ったのである。

ただ、これだけの軍勢が動けば捕捉されない方がおかしい。すぐさま、扇谷上杉家、太田道灌軍の知るところになり、夜襲や兵糧部隊が襲われる。遠征軍の行く手が阻まれる。成氏は必死に、武蔵や相模の地侍達に決起を促したが。もともと、拙速で、進んできた軍隊である。地侍達にとっても、負けている軍隊を応援するわけがない。立ち往生のまま、進退窮まった成氏軍は逃げ始めたのである。逃げ散る軍隊ほど弱いものはない。成氏軍は大敗北を喫することになる。成氏自身も古河に戻ることができなかった。荒川沿いに東に逃れ、千葉孝胤を頼って、千葉氏の下に逃げ込んだのである。この情勢に上野(コウズケ)の山内上杉軍も動く、上野から利根川沿いに進軍を開始し、古河城の攻略を目指して進み始めた。さらに、幕府は古河公方側の有力諸将に恭順を求め、小山氏や小田氏という有力諸将が幕府の命令に従うようになったことも古河公方の誤算であった。

ただ、山内上杉軍の古河攻めは成功しなかった。上野の山内上杉軍だけでは、古河城を陥落させる力が無かったのである。山内上杉軍は一族の越後兵や秩父、武蔵の諸将を配下にして、初めて力を発揮したのである。山内上杉軍は撤退し、それともに、成氏も古河城に復帰したのであった。

文明8年(1476年)2月、駿河で今川家の当主である義忠が遠江の地で戦死をするという事件が起こる。残されたのは幼子の龍王丸とその母、北川殿である。当然、戦の続く世である。幼子では国を統治できぬという議論が起こる。それを猛烈に主張したのは龍王丸とは従兄の関係に当たる小鹿範満である。小鹿範満は母方の縁戚にあたる堀越公方の執事・犬懸上杉政憲に支援を求める。

この要請に犬懸上杉政憲は同族の相模の守護扇谷上杉家の当主上杉定正に小鹿範満支援のための協力を求めたのである。上杉定正は家宰の太田道灌を招き、兵を率いて駿河に行くことを命じる。そして道灌に因果を含めて言うのである。「小鹿範満殿を今川家の当主にするに、龍王丸がじゃまならば、その命をとれ。」

この状況に危機を感じたのは龍王丸の母である北川殿であった。北川殿の生家は幕臣伊勢家であった。北川殿は伊勢家に助けを求めたのである。当時の伊勢家の家督は伊勢盛時が継いでいた。伊勢家は足利将軍家の直臣で、盛時の父、盛定は将軍足利義政の申次なる要職を務めていた家柄である。北川殿は盛定の娘で、盛時の姉に当たる。龍王丸の危機は将軍家と今川家の絆にも影響する。盛時は将軍の許しを得ると駿河に走ったのであった。

将軍の権威をたてに懸命に龍王丸を守ろうとする伊勢盛時と軍事的な圧力を背景に小鹿範満の当主擁立を目指す太田道灌とのし烈な戦いが始まったのである。ちなみに伊勢盛時こそ、のちの北条早雲である。盛時が「そち達は将軍上様の命に背くつもりか。」と大音声を上げれば、道灌は今川館の周りを兵で固め、無言の圧力を加えたのであった。

読者の中には、幼子を殺戮しようとする道灌の行動を非難する人もいるかもしれない。しかし、この時、道灌は強引に力を行使することはなかったのである。むしろ自制し、交渉で道を開こうとしていた。一方の伊勢盛時こそ、時間を稼ぎ、時を得て、反撃に移ることを考えていたに違いない。事実、龍王丸にとって、目障りな存在である小鹿範満を11年後の長享元年に、今川軍を率いて、討伐してしまうのである。伊勢盛時はこの功により、駿東下方12郷を与えられ、興国寺城に入る。戦国北条氏の基礎がこの時に築かれるのである。



享徳の乱4


景春と道灌
駿河で、伊勢盛時と犬懸上杉政憲・大田道灌との間のし烈な駆け引きが展開されていた時、突然に、関東で異変が起こる。山内上杉家で、長く家宰を務めていた長尾宗家の長尾景春が管領山内上杉顕定に対して、謀反を起こしたのである。扇谷上杉定正から早く関東へ戻れと言う矢の催促が届き始める。太田道灌は早急に駿河の問題を解決しなければならなくなったのである。落としどころはどこか。道灌が考えたものは龍王丸君が成人するまでの今川家の差配は小鹿範満殿が行う。そして、龍王丸君の成人の暁には、家督を龍王丸君に戻すというものであった。この案に、伊勢盛時は安堵する。ひとまず、龍王丸君の命を守ることができたのである。しかも、龍王丸君が今川家の宗家であることも認知させたのである。一方、大田道灌も考えるのである。もし、小鹿範満殿に人望なり、手腕があれば、このような約定など問題にはならないだろう。今川家を差配できる時間を与えたのだ。後は小鹿範満殿の問題だ。だが、太田道灌の軍兵が関東に去ったある日、伊勢盛時は今川家中に申し送るのである。「私はこの約定の見定め人である。この約定通り、龍王丸君が今川家当主となる日まで、駿河にとどまるつもりである。これも将軍様のご命令でもある。」

享徳の乱の最後を飾る人物として、長尾景春が登場する。その姓が示すように、彼は山内上杉家の家宰を務める長尾家の人である。文明5年(1473年)山内家の家宰・長尾景信が死去する。長く守勢一方の山内上杉顕定を支えた人物である。嫡子は長尾景春である。彼が長尾宗家を引き継いだのである。だが、管領上杉顕定は家宰職を傍流の景信の弟・長尾忠景に与えてしまうのである。上杉顕定という人物はこの時になにを考えていたのだろう。世が戦国時代に入ろうとしていた風潮を感じていなかったのであろう。自分が決めれば、不満があろうがなかろうがすべてが決まるというこれまでの考え方にどっぷりとつかっていたのである。当然、自分が家宰職を継ぐと考えていた景春は面白くないし、家臣たちに対しても面目が立たない。自分を家宰職に就けるようにと働きかけをするのだが、顕定は歯牙にもかけない。力のない忠景が家宰職だけに、自分の意見も通りやすい。すべてがうまくいっていると感じていたのである。

ある日、長尾景春は扇谷上杉家の家宰太田道灌に相談する。上杉顕定様のなさりようには納得がいかぬ。直談判したいが、合力してくれぬかと言うものであった。顕定様が応じぬ場合はどうするのだという道灌の問いに、景春は平然と答える。管領職を引いていただくだけじゃ。言外に殺戮も辞さぬ決意が込められていた。つまりはクーデターである。戦国時代の特徴は下剋上である。下の者は上の者に実力が無ければ、平然と権力を奪う。しかし、それ以前の時代ではあくまでも権威主義の上に行われていた。下の者も、その権威を利用して這い上がっていくのである。だから、紛争とは兄弟とか、一族内の争いが中心であった。主人と家臣との争いになることはめったにないことであった。よく言われるように、北条早雲の出現が下剋上時代の始まりと言われるが、北条氏ほど、権威を利用して発展した一族もいない。そもそも早雲が鎌倉北条氏の拠点である韮山に城を築き、次代の北条氏綱が小田原に進出し、北条氏を名乗り、鎌倉北条氏の権威を利用し続けたことはその名でも分かる。のちには古河公方家に娘を嫁がせ、生まれた子に古河公方家を引き継がることで、関東諸氏に号令をかけたのも、すべて権威を利用したものである。これは北条早雲が今川家の中で室町将軍の権威を最大限に利用して地位を築いてきた経緯を考えれば、ごく自然のことであった。

太田道灌も権威を尊重する人物であった。彼の武力は確実に上がっていたが、権威体制からはみ出すことを望まなかった。その意味では長尾景春とは対照的な人物であったのである。景春から合力を求められた道灌はきっぱりとこれを拒否する。その上で、山内上杉顕定の上申するのである。「長尾景春に謀反の志あり。」と。そして、これを防ぐためには景春を家宰職に就けるべきであると意見を述べたのである。だが、この道灌の提案を顕定は頑ななまでに拒否する。顕定にすれば、扇谷上杉家も管領山内家に従う存在である。その扇谷上杉家の家宰の身分で、自分に意見するとは厚かましいにもほどがある。

ここで問題になるのは顕定が長尾景春に謀反の志があることを知りながら、これを放置したことである。本格的な戦国時代に入れば、このようなことは絶対に許されない。今川義元は尾張に侵攻する前に、織田信長との最前線を守る山口左馬之助父子の謀反の噂に、すぐさま彼らを駿府に呼び出し、疑いが晴れぬということだけで、断罪してしまうのである。上杉謙信の重臣、柿崎景家も織田信長との内通との噂だけで死罪に処されているのである。しかし、この時、山内上杉顕定は噂レベルではなく、謀反を本人自身が語っているにもかかわらず、何も手を打たないのである。これは権威を信奉する人の鷹揚さかもしれないし、時代の鷹揚さかもしれない。しかし、この鷹揚さが越後の守護上杉氏に対する守護代長尾氏の下剋上につながり、自身の最後に繋がっていくことを理解できていなかったのである。

長尾景春が道灌に自分の気持ちを伝えてから2年後、景春は武蔵の寄居に鉢形城を建設する。その頃の関東では珍しい防備に優れた本格的な城である。荒川沿いの急峻な崖の上に造られた城は、その地形から攻めるに難しい城を造り上げたのである。景春が目を付けた場所で、しかも、そこは上杉方の拠点、五十子陣城の後背地に位置していた。五十子陣城は東からの攻撃には強いが、後ろからの攻撃にはまったく無防備だったのである。

鉢形城址は東武東上線寄居駅から徒歩15分ほどのところにある。鉢形と呼ばれているように全体的にはお椀を伏せたような形状の山で、一方を荒川の急流が削り取った急峻な崖が敵を威圧する。このあたりの荒川は今でこそ、ダムの影響で、水量も少ないのであるが、当時は水嵩も豊富で、人が渡るにも困難を極めたものと思われる。この城跡は現在、埼玉県の管理の下で、整備され、公園の中には鉢形城歴史館もある。現在の城址あとは広大な公園になっていて、土塁や空堀などが縦横に走り、馬出しなどの場所も残っている。この現在の縄張りは戦国北条氏の北条氏邦によって整備されたものである。関東に進出しようとする甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信に対抗するための巨大な城郭を造り上げたのである。この城の最後は豊臣秀吉の北条征伐による前田利家、上杉景勝などの大軍との戦いである。そして1か月ほどの攻城戦を経て、北条氏邦の降伏を持って終わることになる。家康が関東に入り、西からの脅威がなくなると、その使命を終えた城は廃城になった。ただ長尾景春が当初に築いた城は、それよりもはるかに小さい物であったことは想像される。城址の本丸を中心にした城であったと思われる。荒川を背に、前には深沢川があり、そのわずかな空間に、立てこもることで無類の存在感を示したのである。

文明8年(1476年)6月、長尾景春は古河公方と結び、武蔵鉢形城を拠点に、山内上杉顕定に謀反を起こしたのである。景春がこの時を選んだのは、上杉方の最大の武力を誇る大田道灌が駿河に遠征中であったからである。「この時以外にない。」景春は迅速に行動に移る。景春は上杉方の最大の拠点である五十子の陣を急襲し、山内上杉顕定、扇谷上杉定正を大敗させるのであった。そして、五十子陣城を破壊し、鎌倉街道を分断し、上野と相模の両上杉家を分断させることに成功するのである。

この長尾景春の乱の知らせは瞬く間に、関東各地に広がる。しかも山内上杉顕定、扇谷上杉定正が戦いに敗れ、敗走したという。それでなくても古河公方軍に対して劣勢な上杉軍が分裂したのである。動揺が広がらないはずは無い。長尾景春に味方する国人が続出する。特に大きかったのは石神井城(東京都練馬区)を拠点に、強力な地盤を持つ豊島泰経が長尾景春に呼応して、反旗を翻したことだった。このために江戸城と河越城の連絡が絶たれる事態となったのである。



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