享徳の乱2


太田道灌現る。
鎌倉公方の支配地はいわゆる関東一円に伊豆と甲斐を加えた地である。上杉氏の支配地は拠点の上野(コウズケ、今の群馬県)と守護として領していた越後である。だから、その支配地は微妙に異なる。上杉氏は鎌倉公方に仕えてはいたが臣下ではなかったのである。だから鎌倉公方と関東管領の上杉氏が対立抗争に発展した時に、両者とも、京都の将軍家に対して、自分の正当性を訴えた。鎌倉公方の足利成氏は当然、上杉氏の自分への反逆であり、その成敗のために軍を動かしているのだと主張した。一方、上杉氏は成氏が幕府の裁定に背いている上に、管領の上杉憲忠以下に闇討ち行為をした。これは許せるものではないと幕府の支援を求めたのである。幕府はこの事態に素早く反応する。現状は鎌倉公方方の軍事的な優勢は動かない。下手をすれば、関東に幕府と敵対する政権が誕生しかねないのである。幕府は鎌倉公方と関東管領上杉氏の争いを私闘と断じた。私闘である以上、両者を罰するのだが、現在優勢な公方方の動きをけん制する狙いであったことは言うまでもない。こうして軍勢をひけと言う幕府の命令に従わない鎌倉公方が反逆者となったのである。享徳4年4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得て、成氏を朝敵とし、まず鎌倉公方の目付的な役割を担う駿河の今川氏に成氏討伐を命じたのである。そして、それを足掛かりに関東各諸侯へも成氏討伐に従うように促し、関東介入に本格的に入ろうとしたのである。

山内上杉方は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、懸命に反撃の体制を整えようとしていた。房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏からの援軍と小栗城の敗残兵をまとめ、下野天命(現在の佐野市)・只木山に布陣し、迎撃の機会を窺う。ただ、それが上杉軍の本格反抗と言うには弱弱しい布陣だった。成氏軍の追撃は急であった。すでに天命・只木山の上杉陣に向けて出撃を開始していて、最後の一撃を加えようとしていた。勢いは成氏軍にあることは間違いなかった。いわば、上杉対全関東武士の戦になっていた。

しかし、ここで、成氏の下に幕府軍の関東出陣の知らせが届く。それは駿河守護今川範忠の名代として、出撃した憲忠の嫡男今川義忠の軍勢であった。500ほどの軍勢であったが、その幕府軍と言う名前に威力があった。彼らは錦の御旗を押し立てての進軍であった。そしてまっすぐに鎌倉の公方屋敷を目指したのである。6月6日には鎌倉に侵攻し、主人のいない公方館などを焼き尽くしたのである。

幕府から反逆者の烙印を押されて、鎌倉公方足利成氏の軍の勢いが弱まる。従う諸将にも動揺が広がりだした。いつ、幕府の大軍が自分たちに襲ってくるか分からなかったからである。そしてそれは、それまで一方的に押され続けていた上杉氏にも一息つく時間を与えることになった。

下野天命でこの知らせを聞いた成氏は慌ただしく軍勢を小山まで引かせる。幕府軍に対する備えをしなければならなくなったからである。成氏にはこれから迫る幕府軍が現在鎌倉にいる兵力だけとは思えなかった。これからも後続部隊が次々に押し寄せてくるはずであった。それほどに今川軍による鎌倉攻略の宣伝効果は大きかった。

成氏と成氏を支持する諸侯は古河まで戻る。古河には幕府の御料地があったほかに、南から攻めてくるであろう幕府軍との間に利根川と荒川という二つの天然の要塞が横たわっていた。そして成氏を支持する小山、結城、千葉、里見という有力諸侯はいずれも古河の後背地にあり、機動的に公方軍を支えることが可能であったことも古河を拠点とした理由であった。これらの諸侯は関東平野の東側、下野(シモツケ、現在の栃木県)常陸(ヒタチ、現在の茨城県)安房、上総、下総(現在の千葉県)を拠点とする諸侯が多く、関東の西側を拠点とする上杉方との対立は、これから以後、東西対立を軸に展開していくことになる。

成氏は迫りくる幕府軍に備えて、荒川と利根川の間の湿潤な地にいくつかの城を築き、防衛線を構築した。敵からの防衛を目的としての関東での城造りはこれが最初であったと思われる。成氏は忍、菖蒲、野田、関宿、羽生の諸城を整備し幕府軍に対抗しようとしたのである。

忍城はほかの各城と同様に、利根川と荒川に挟まれた湿地帯に造られた城である。もちろん、成氏が命じて造らせたものは江戸時代の規模も大き豪壮な造りとは異なりく、また戦国末期の北条氏の支援の下に拡大された城とも比べ物にならないほどに小さなもので、砦と言った表現の方が妥当であったと思われる。忍城はもともと、この地の有力者であった忍大丞の居館があった場所と言われている。その忍大丞を現在の熊谷市を拠点に勢力を伸ばしていた成田氏が亡ぼし、その後成田顕泰がその地に築城を始めたとされる。成田氏は古河公方方に属していたのである。

羽生城も城として、立派な体裁を整えるのは随分と後になる。その見事な蚊取り線香のような形の水城は敵からの攻撃をいかに大軍であっても、落とすに難しい城にしたのである。この城の起源は成氏の家臣、広田直繁、木戸忠朝兄弟によって、築城されたと伝えられている。もちろん、当初は城とは呼べない砦のようなものであったと思われるが、関東の中心にあって、その重要性が高まるにつれて、城の規模も大きくなり、多くの兵士を抱えられるようになったことは言うまでもない。江戸時代になれば、これらの城の領主はいずれも幕府の要職に就き、それに伴って、城も拡張され、城主の格に合わせて立派なものになったのである。そして風土記によれば、菖蒲城の完成も1456年ころのことであるとされる。一時、菖蒲城には成氏が籠ったとも記載されている。

さて、それほどに熱心に、幕府軍への防衛線を構築していったのであるが、肝心の幕府軍は鎌倉の館を燃やして、しばらくすると撤退していった。駿河の守護今川範忠には関東よりももっと身近な問題を片付けなければならないことがあったからである。それは遠江の混乱であった。鎌倉に出陣していた今川義忠は呼び戻され、その代わりに関東に幕府軍が来ることはなかったのである。応仁の乱の前夜の混乱が全国各地で起こり始めていたからである。

こうして、成氏が荒川と利根川の間に強靭な防護陣をひいたために、逆に、その南の武蔵と相模の国に大きな空白地帯が生まれることになった。その空白地帯に進出したのが扇谷上杉家であり、その家宰の大田道灌であった。扇谷上杉家はもともと相模の糟屋館(神奈川県伊勢原市)を中心にする一族であった。太田道灌はその父、大田資清とともに、扇谷上杉家を支えて、奮戦する。康正4年(1456 年)の家督を相続すると、品川に館を造り、東武蔵に進出し、さらに江戸城を構築して、相手側の強靭な勢力である千葉氏が武蔵に進出する道を閉ざしたのである。そして、武蔵の国の東に位置する川越では、父の資清が同じころに川越城を築城し、南下を狙う忍城の動きに備えたのである。こうして太田道灌は川越と江戸と、その中間、岩槻城の3か所を拠点として、武蔵の国を実質支配することになったのである。豊かな国、武蔵を支配することになった太田道灌には、豊富な資金が手に入った。この資金を元手により強い軍事力を得ることができたのである。それは傭兵である。もともと扇谷上杉家の家宰に過ぎない太田氏には多数の一族郎党はいない。私兵の少ない道灌はこの傭兵を駆使して、既存の勢力に戦いを挑んだのである。




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